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3かく運動の小話


3かく運動(大島清氏)の"あせかく"、"ものかく"、"はじかく" の3かくより。----文 岡 邦行


1.目次

1.1 、北アルプス登山のすすめ
2.1、 病理のお仕事
1.2 、習 字
2.2、 高木の慈恵と北里の慶応
1.3 、マイカー登山(96夏)
2.3、 うつくしまいじん伝(1)
1.4 、伊吹山、円空仏、谷内六郎
2.4、 うつくしまいじん伝(2)
1.5 、人痘法と牛痘法
2.5、 うつくしまいじん伝(3)
1.6 、10Km走55回完走
2.6、 大山北壁の崩壊
1.7 、三 春
2.7、 アサヨ峰の教え
1.8 、お酒の話
2.8、 タクシー利用登山
1.9 、追っかけ中年・神輿
2.9、 北ア北部のんびり山旅(1)1984年
1.10、 じっさまと長寿
2.10、 北ア北部のんびり山旅(2)1985年
3.1、 長英と蔵六
3.2、近代医学の名コンビ
3.3、酒人公
3.4、富士見登山・富嶽4景
3.5、祭礼・山車
3.6、ロードレース4選
3.7、解剖の記
3.8、海がみえる3名山
3.9、常念岳から富士遠望
3.10、甲武信から富士眺望
4.1、 職業癌・発がん・干支実験
4.2、教師冥利
4.3、飯豊連峰石コロビ雪渓をのぼる
4.4、後立山連峰針ノ木雪渓をくだった
4.5、渓流をあるく
4.6、ペスト(黒死病)をよむ
4.7、梅毒(花柳病)をよむ
4.8、結核をよむ
4.9、らい(レプラ、ハンセン病)を読む
4.10、まつり・野外劇
5.1、 走る病理医100レース走る
5.2、お産壱弐産話
5.3、病理医田原淳・ペースメーカーの父
5.4、茨城の奇祭・古河、大津港、金砂郷
5.5、ツルーマン(true man)山口瞳の酒乱論
5.6、「団塊の世代」病理医の思い出
5.7、アドレナリン発見秘話
5.8、インシュリン発見秘話
5.9、視床下部分泌ホルモン発見秘話
5.10、光合成、葉緑素、紅葉登山

1.1、北アルプス登山のすすめ

 北アルプスへの夏山登山3コースをお奨めします。条件は1泊2日で、初心者コースです。夜行車中1泊(時間があれば山麓で1泊)、山小屋1泊で、登り約5時間で最高の展望が楽しめます。
夜行バス(サミーツアー等)は新宿西口高層ビルや東京ドーム前より発車し、往復約1万円位です。首に空気枕(約2000円)を付け、耳栓(500円)をすると熟睡できます。
北アルプス北部は、剣立山連峰、後立山連峰(白馬、唐沢、五竜、鹿島槍、爺々、針ノ木)、黒部源流の山群(雲の平周囲の山:薬師、黒部五郎、鷲羽、水晶、祖父)からなります。
北アルプス南部は、槍穂高連峰、燕、大天井、常念、蝶、笠からなります。7時から登れば13時までには小屋に入れます。

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1.2 、習 字

私の祖父は下駄小売商、父は靴小売商であった。従兄弟達と近所の友達は親が商人であった。祖父は、「商人の子は、『よみ、かき、そろばん』が大切だ」と言っていた。祖父の時代は寺小屋で学び、現代は義務教育が確立している。
祖父は、<年末大売り出し>と<祝新入学記念セール>と<蚤の市出血大サービス>の大看板を毎年書き、跡取りの私は側でそれを見て育った。昭和20年代の事である。
祖父の後を継ぐため、私は習字を入学前から近所の先生に習った。墨を摺り瓶に入れて持って行くのが面倒であった。
習字は、大学時代に役に立った?。学生運動が激しい昭和42年に入学した。昼は立て看(大きさ約縦3米横10米)に大きな独特の文字を書き、夜はガリ版切り(謄写版印刷)を随分やった。
学生寮生活をしていたこともあって。昭和44年安田講堂落城の時、壁に「連帯を求めて孤立を恐れず、力及ばずして倒れることを辞さないが、力を尽さずして挫けることを拒否する」と、気品のある墨で書かれていたという。好きな言葉であるが、読み人知らずである。
大学時代の友達が集まり、5つの家族で毎夏家族旅行を行い、夏の思い出を沢山作った。記念写真の為に、毎回垂れ幕を墨で書いた。写真は東京ドーム内でのワンショットである。
平成6年から水戸済生会総合病院・病理へお世話になってから、思い立って 家族で習字を始めた。先生につかず、かってに『書酔会』と名付けた。平成8年文化庁後援第11回日本習字展へ出品した。参加者は、病院関係者、私の友人のラーメン屋さん、と家族の合計9名であった。写真は9人の力作です。





約20万人が参加する大きな展覧会です。文部大臣賞授賞者を含む14人が中国へ招待派遣されます。確率は0.007%です。2月1日結果が届き、特選4人、優秀賞4人、佳作1人であった。予想以上の良い成績でした。残念ながら団体賞に選ばれなかった。
今年の活躍が期待されるところです。 第12回日本習字展の募集要項は下記の通りです。
締切り:9月30日、作品:半紙(33.5x24.5cm内外)、
応募資格:年齢を問わず、
応募点数:1人1点のみ、
出品料:幼児から高校生500円、成人1000円、
応募課題:自由課題、或いは、規定課題(下記)―何れも6字以内但し、幼児から小学生はひらがな、カタカナ及び漢字(楷書)、中学生はひらがな及び漢字(楷書または行書)、高校生から成人は漢字(書体自由)―〔規定課題〕6月頃発表、出品方法:作品に学年、氏名を記入、幼児―〇さい、小学生―〇年(1年生のみ―ねん)、中、高学生―中、高〇年と氏名、成人―氏名のみ、裏打ち、表装は不要。作品の下部左端に所定の出品票を貼付すること。皆様年に1回習字を楽しみましょう。

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1.3 、マイカー登山(96夏)

私は、昭和52年に気丈山岳会(ヨーロッパアルプスのメンヒに登った私の友人から、貴方の登山は机上登山だと言われ、それを捩りました)を設立した。会員は2名から8名程度で、福島医大卓球部の後輩、福島医大第1病理医局員と私の家族です。
私は、昭和55年から平成6年まで、千葉の稲毛に住んでいた。隣が千葉大で、14年間千葉大生、千葉大職員になりすまし、生協で昼食を食べ、医学書を1割引きで購入した。夏の登山夜行バスと冬のスキー夜行バスを1割引きの学割で購入でき、貧乏な生活を快適に過ごせた。夜行バスは、首に専用の空気枕を巻き、耳栓をすると腰掛けたままぐっすりと眠れた。
平成4年子供が年長になり、いつまでも単独登山が出来なくなった。マイカーで家族登山を行うようになり、今年で5年目になる。平成4年那須、5年蓼科、霧ヶ峰、美ヶ原、6年草津白根、赤城、志賀、谷川、7年瑞牆、大菩薩、西沢渓谷に登った。マイカー登山は、夜中出発し、峠、林道終点に駐車し、時間が短縮でき、日帰り登山が可能である。
96夏は天気に恵まれ、4つの山に登った。7月28日(日)菅沼から日光白根山へ。320名の高校生と一緒に、奥白根山頂上(2578m、百名山)へ。女学生の「超……ってな感じ」なる会話がまだ耳奥に残っている。8月3日(土)奥秩父連峰の朝日岳(2579m)へ。金峰山(百名山)の前山です。金峰頂上に大きな五丈岩が見えた。五丈岩に登ったが降りられなくなった話がある。
峠から低速走行中、工事現場で、前輪が完全に窪みに嵌まり、脱出不可能となった。作業員が金属ロープを愛車「セフィーロ」に縛り、ギアをニュートラルにして、ショベルカーに引っ張って貰ってやっと脱出できた。うろたえて騒いでしまった。この状況を一部始終見ていた下から上がってきた家族は、4人全員顔が青く固まっていた。




5日(月)奥多摩の雲取山(2018m、百名山)頂上へ。前日夜娘が喘息様発作を起こした。〈メプチンミニ〉を飲ませ、発作がおさまりやっと寝てくれたが、心配で全然眠れなかった。
山小屋のカビ臭い毛布が原因と考えられた。翌朝、小屋のトイレに入ると、壁に『使用後<EMボカシ:商品名>をスプーン一杯便器に振り落として下さい』、『EM菌は有用微生物で、便の発酵を止める働きがある』と書いてあった。環境対策のひとつである。
写真は雲取頂上で、奥多摩から奥秩父連峰への縦走路です。8月18日(日)足尾連山の庚申山(1902m)へ。百名山の皇海山(すかいさん)の前山です。奇岩で出来た山で、鎖と鉄梯子を伝わって、スリル満点の山だった。滝沢馬琴作「南総里見八犬伝」の中で、犬飼現八の山猫退治の場であった。 天気に恵まれ、充実した夏休みを楽しんだ。今から来年に備え、机上登山を行う予定である。

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1.4 、伊吹山、円空仏、谷内六郎

5月16、17日日本網内系学会が、名古屋で行われた。会場が大きく、会員がまばらで、今後の学会運営が心配です。学会の活性化が叫ばれ、活性化委員会が誕生したが、効果はまだ表れていない。
小さな学会は、演題、投稿原稿が集まらず、学会運営と学会雑誌の編集に苦慮している。
2日目の午後一般演題終了後、東海道線で近江長岡駅へ、バスで伊吹山登山口へ、瀧澤旅館泊。2階の部屋から伊吹山山頂がうっすら見えた。翌日はガスで見えず、シャッターチャンスを逸した。酒3本飲んで1泊2食付き6500円の宿泊代は嘘みたいに安かった。
18日(土)、3合目までゴンドラを利用。9時05分、登山開始。2合目から7合目までガスで視野がきかない。7合目から上は天気良く、日焼け防止のためタオルで顔を被った。10時35分伊吹山山頂(1337m)到着。深田久弥氏の「日本百名山」(新潮文庫)で89番の山です。
昭和46年(22才)から百名山に挑戦し、今回が45名山目です。琵琶湖、竹生島、白山の眺望は出来なかった。頂上に、多種の薬草が植えられていた。
頂上の小さなお寺に、5体の円空仏が納められていた。初めて本物の<円空仏>を見た。
1体は触ることが出来た。悪いところを触ると御利益があるというので、全身くまなく触った。テカテカしていた。
円空仏

昭和63年から平成2年(千葉市稲毛の放射線医学総合研究所勤務時代)まで、「円空学会」へ入会していた。学会雑誌が年4回送られて来た。内容は円空に関する古文書の発見と解釈、円空仏の発見と説明で、私には難しすぎて脱会しました。
残念でしたが、学会発表、論文投稿は出来ませんでした。同僚の放射線治療医は学会雑誌を不思議に眺めていた。ある特別な病理学を追求する珍しい学会と説明した。
似たものに<木喰仏>があり、放医研近くにある穴川郵便局の局長に円空仏と木喰仏について教えを受けたことがある。わざわざ八王子まで行き、「円空仏と似た仏像」の個展(村野實氏作円空仏)を見に行ったことが2回ある。
1体10数万円の「円空仏まがいもの」を購入するべく努力したが、家族に反対された。家の中が暗く、線香臭くなるという理由と、20数年収集している「こけし」で充分だと言うのが理由でした。
8合目付近の円空上人が修行した場所は確認できなかった。白、黄、紫の小さな花のお花畑が続き、心が和みました。カタクリを期待していたが、遅れているらしく1本も遭遇しなかった。往復2時間40分。両膝を痛め、足を引きずって降りてきた。
交通の連絡時間に恵まれ、16時15分東京着。日本橋三越本店に行ってから引き返し、銀座三越で「谷内六郎没後15年」の展覧会を見た。
週間新潮の表紙を飾った<漫画>です。階段の登り降りが、膝の痛みできつい。タンポポの綿毛に少女が息を吹きかけると、1本1本の毛糸が小さなバレリーナになる絵が気に入った。最終の高速バスで帰ってきた。欲張って、1日で3つの事を楽しみ、非常に疲れた。
<円空、1632―95年> 
美濃の人。彫刻の天才、遊行の僧。北海道から近畿地方を漫遊し、生涯12万体の円空仏を創った。現存するのは約4500体。捨てられそうな丸太の割材をそのまま利用し、木目、節、割れ目の木質を生かして仏像を創った(円空巡礼、新潮社、1986年)。
<谷内六郎、1921―81年>
「幼い日の夢」「日本のふるさと」をテーマに絵本やまんがを描いた。昭和31年創刊以来25年間、週間新潮の表紙絵を描き、抒情画家ともいわれている。

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1.5、人痘法と牛痘法

 周五郎、遼太郎、周平の歴史小説に痘瘡の話が出てくる。天然痘で死んだ遺体を乗せた大八車がひっきりなしに町を駆け巡り、町人はおびえ、祈祷を行い、疫病よけの赤いたすきをかけ、町を捨て山に逃げこんだ。10人のうち2人が、高熱の中うめきもだえながら死んだ。助かった人は顔があばたになり、娘さんは一生家に中に閉じこもって不幸な人生を送った。天然痘はインド原産のウイルス感染症で、日本には724年に入ってきた。種痘が普及するまで、よけの風習を行なったり、牛糞を焼き煎じて飲んだ。現在、生物テロ兵器の脅威があり、イギリス政府は1600万人分の天然痘ワクチンを確保した。
吉村昭文学から多くの種痘物語を知った。年代順に羅列し、激しい生涯をおくった人物を整理した。 種痘には人痘法と牛痘法がある。前者は1744年清国人李仁山により長崎に伝わった。軽い天然痘にかかったヒトのかさぶたを幼児に植える法で、死亡することが多く非常に危険であった。
1789年、筑前で成功したがその後行なわれなくなった。後者は1796年イギリスのジェンナーにより確立された。牛痘にかかった牛の乳絞りをしている女性は軽い痘瘡にかかるだけで、人間の天然痘が蔓延しても発病しない現象を病理細菌学的に観察した。牛乳絞りの女性の手に出来た痘を、8才の息子に植えた。本物の人痘を植えたが天然痘にかからなかった。
五郎治*7は南部藩生まれの40歳、エトロフ島の番人小頭で、1807年ロシア艦に拿捕され5年間オホーツク、ヤルーツク、イルクーツクに抑留された。1812年、ロシア人から牛痘法の本を貰い、シーモノフ医師から種痘法を教えてもらった。若い牝牛を杭に縛りつけ、毛が少なく皮膚が薄い部分(乳房など)に小刀で約3mmの傷を2、3ヶ所つける。その部に天然痘にかかった人間の発痘部の膿を擦り付ける。3日目から化膿し膿をガラス板に塗り付け蓄える。塗ったガラス板を2枚合わせて瀝青で封じる。粉炭に入れておくと長時間の保存が可能である。
必ずしも得られないので根気よく何度も試みられた。ガラス板の上に唾液をたらし乾いた膿を溶かし、腕に小刀で傷をつけ痘液を擦り付ける。何故か男児は右腕に女児は左腕に植える。3日目に発赤、4日目に腫脹、8日目頃から排膿し、その後かさぶたになる。牛が天然痘にかかることは稀なので、ヒトの痘を牛に植えつける試みが多数なされた。しかし現代の細菌学者によると、牛痘苗はヒトの痘から得られないという。
1813年、広島芸州人の久蔵が高田屋嘉兵衛*3と共に抑留地ロシアから痘苗をもって帰国した(吉村著花渡る海)。藩主に牛痘法を説明したが、牛痘を植えると「牛になる」「牛の角が生える」と言われ、許可がおりず、そのうち大切な痘苗が朽ちはててしまった。
1824年、*7は松前商人田中正右衛門の一人娘イク11才に牛痘法を行ない、日本初の種痘に成功した。
五郎治は医師でなく番人である。松前の北東にある大野村の農民彦助が飼っている子牛にできた黄色いかさぶたを剥がした。丼の底でつくった貯臓器に入れ、蓋をして白布でしっかりと縛り、粉炭の入った小箱の中に納めた。かさぶたを小皿にとり唾液をたらし溶かした。小刀で娘の右腕内側に傷をつけ出血させ、その液をたらし塗りつけ白布を巻いた。順調に発赤、水疱、膿が発症した。自宅に待合室と種痘所をつくり、「植え疱瘡屋」の看板をかけた。亡くなる1848年まで24年間種痘業を専業とし、松前と函館に住む子供に牛痘を植えつけて命を救った。
1回成功すると2分以上の報酬を貰い、金儲けの手段にした。函館の医師白鳥雄蔵が五郎治に再三お願いした。種痘法の伝授はかなったが、痘苗は分けてもらえなかった。五郎治の死と共に大切な痘苗は日本から消失した。日本初の種痘成功は、表(年表要説日本の歴史から)のように1848年楢林宗建となっている。
実際はその24年前から行なわれていたのである。極めて狭い土地で。昔の医師は代々医術を秘伝・家伝としていた。生活の糧を奪われるからである。五郎治が寛容な心を持ち、無料で種痘を行ない、全国に痘苗を分け与えていたら、その後日本全国の子供が死ななかったのである。
1841年、秋田に遊学中の白鳥らは牛痘法を成功したが、痘苗が植え継がれなくなり消滅してしまった。
石井宗謙は岡山美作の人、シーボルトに師事し産科を専門とした。宗謙は1841年以来人痘法を試み、4回成功したが、1847年の5回目は失敗した*5。接種10日目に発熱し、顔に出来た痘から膿が流れ出し、23日目で発狂して死亡した。以下雑談。両者は権力志向が強く、女性願望が死ぬまで病的にあった。
シーボルトは1823年長崎で鳴滝塾を開き日本の科学史に大きな衝撃を与え、1828年シーボルト事件で国外退去となった。事件に関わった20人以上の日本人が死罪、獄中死、変死、自刃して死んだ。
31年後の1859年、彼は13才の息子と再来日した。63才になっていた。愛妾だったお滝(紫陽花の学名オタクサで有名)、娘で日本最初の女医お稲に冷たく、毎日若い伽を要求した。病気である。宗謙は本妻と数人の愛人がいたにもかかわらず、50才半ばを過ぎた年で、恩師シーボルトの娘お稲に陵辱をはたらき、娘(おタダのちのおタカ)を生ませた。病気である。
シーボルトらは1823年以降、東アジアのパタビアから牛痘苗を何度も輸入したが、航海中に乾燥し効力が失い植えつける事が出来なかった。
1848年、日本で初めて?(いままでの日本史年表上)牛痘法が成功した。佐賀鍋島藩主がオランダ医モーニッケに協力を依頼し、藩医楢林宗建が息子健三郎へ接種し成功した。かさぶたを粉状にし細長いさじで鼻孔に差し入れ、鼻の奥に吹き入れた。何故か男児は左鼻孔、女は右鼻孔から。鍋島藩に除痘館がつくられた。
笠原良策は1809年生まれの福井の人、京都の日野鼎哉(ていさい)の教えを受け、「人を死なさぬ道、それは牛痘菌を持ち帰ること」と決意した。福井藩主松平春嶽の協力で、老中阿部正弘を動かし、幕府から種痘の許可を得た。1849年モーニッケ株が長崎から京都へと植え継ぎに成功し、大阪緒方洪庵(阪大医学部前身の適塾を創設)へもたらされ、関西における種痘の源を確立した。京都から福井まで、北国街道200km6日間の雪の峠越えを敢行した(吉村昭著雪の花)。その後痘苗は福井から江戸、信州松代藩佐久間象山へと運ばれた。プロジェクトXの最大の困難は、種痘7日目で種継ぎをする子供の確保であった。「めちゃ先生」とののしられ、石を投げつけられながら全身全霊全財産をかけて遂行された。一般向けにパンフレット「牛痘問答」を作成した。藩の協力で除痘館が設立された。
五郎治が持ち返った露語の種痘本「オスペンナヤ・クニーガ」は幕府に没収された。語学の天才長崎通詞馬場佐十郎が写本し、時間をかけて翻訳を完成し、死後大分たった1850年、日本初の牛痘医書が「遁花秘訣」として出版され全国に伝わった。
種痘法は世界中に広がった。WHOは1958年根絶計画を開始、1967年防疫を強化、1977年エチオピアで最後の患者が確認され、その後2年間患者の発生を見なかったことから、1980年全世界天然痘根絶を発表した。病理学書には歴史的興味と数行載っている。
関連年表
(医学、露関係、水戸)(政治、経済、社会、世界)
1754 山脇東洋、蔵志 1716 吉宗、享保の改革
1774 玄白・良沢*1、解体新書 1721 目安箱
1786 最上徳内、千島探検1772 田沼意次、老中
1792 大黒屋光太夫*2、露から帰国1775 米独立戦争
1796 ジェンナー、種痘法確立 1782 天明の飢饉
1798 近藤重蔵、千島探検 1787 松平定信、寛政の改革
1809 間宮林蔵*3、間宮海峡発見1789 仏革命
1812 高田屋嘉兵衛*4、露船拿捕1825 異国船打払令
1821 伊能忠敬*5、日本地図完成1832 天保の飢饉
1823 シーボルト*6、長崎来航 1837 大塩平八郎の乱
○1824 中川五郎治*7、種痘成功1840 アヘン戦争
1841 水戸藩、弘道館開校 1841 水野忠邦、天保の改革
1848 楢林宗建、種痘成功 1853 ペリー、浦賀来航
1852 水戸藩、大日本史 1867 大政奉還
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参考本*1,*3,*6,*7;吉村昭「日本医家伝」「間宮林蔵」「ふぉん・しいほるとの娘」「北天の星」*2;井上靖「おろしゃ国酔夢譚」*4;司馬遼太郎「菜の花の沖」*5;井上やすし「四千万歩の男」
               
(済生みと02年10月号、2002月6月2日記)

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1.6、10Km走55回完走

  病理部 岡 邦行 当院心外に1年間赴任していた先生に勧められ、10キロ走に出場するようになり、とうとう55回完走できた。
最近、中高年がマラソン大会の主役で、老化へ落ち込まない様頑張っている。走った後、心の師である加藤シズエさん(昨年末104才で亡くなられた女性初の社会党国会議員)のいう<1日最低1回の感動>を短文に綴り、現在の心境を述べる。


( )内は出場した月と大会名である。
写真1は98年8月2日、今市杉並木マラソン大会のゴール前の力走である。ネットで150m上下する過酷のレースである。
今市杉並木マラソン大会

(写真1)
今市杉並木マラソン大会での
力走!!


30度超す猛暑の中、頭はもうろう、足はふらふら、58分もかかった。自分をいじめるのが好きな性格のようだ。
写真2はその参加賞で、杉で出来た絵馬(とら、う、たつ、み)である。



(写真2)
杉で出来た絵馬



写真3は02年2月3日大雨、大洗マラソン大会での迷走である。 大洗マラソン



(写真3)

大洗マラソン大会での
迷走〜〜〜?



真冬の雨は冷たく、あたまはぐしょぐしょ、アノラック、パンツ、シューズは雨と汗で重く、非常に辛かった。ゴール後直ちに車の中に入ると、身体から湯気が出てガラスの窓が曇った。風邪をひかなくてよかった。
大会に出るようになって丸5年の53才になった。02年2月11日の勝田マラソンで50分台、同17日結城で49分台が出て、当初目標とした年令のタイムを切る事が出来た。48分台も夢ではなくなった。
1、2ヶ月の努力では結果が出ず、3ヶ月間以上の努力を積み重ねると結果が出ることが分かった。病理検査業務、病理科システムの改善改革、英語論文作製、学会発表準備も同じで、一生勉強を痛感した。これが「走り」をしてからの結論である。
35才の職員検診で高血圧が指摘され、37歳時保険会社の医師から「寒い風呂場と便所で発作が起きる確率が高い」と脅かされ、38才から降圧剤を飲み続けた。ジョッギングをはじめてから血圧が130の80、脈拍50−60とさがり、52才でやっと薬の世話にならなくなった。
楽しくなければ続かない、続かなければ意味がないと自分にいい聞かせてきた。走ることは大変しんどいというのが実感である。
仕事場から戻り、着替え、寒風の中、猛暑の中、家から飛び出し、週2回約5キロ、年間500キロのジョッギングは、非常に勇気のいることである。何度も、熱燗と湯豆腐、冷えたビールとだだちゃ豆(枝豆)に負けた。
司馬遼太郎の名著「竜馬がゆく」で、竜馬は「足の達者なやつでなければしごとができぬ」といっている。竜馬も西郷隆盛の従弟の大山巌も足が達者だった。49才でランニング1年生になった灰谷健次郎は「遅れてきたランナー」の中で、「走ることによって、より深く自然を感じ、より多くの世界を知ることができた」と述べている。
同僚から「50才を過ぎて、10kmを休まず走れる身体を授けてくれた両親に感謝しなければいけませんね」と言われ、膝を擦りながらこの言葉をしみじみかみしめ、自分は幸せだと考えている。10km走101回完走を目指してがんばるぞー。60才で60分を切るぞー。老化に負けないぞー。病理科のスタッフに迷惑をかけないぞー。
最後に、病院の皆様、「ものをかく、あせをかく、はじをかく」の3かく運動に協賛して下さい。何か夢中になるものを持っておりますか?。
済生みと02年7月27号(2002年3月16日記)

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1.7、三 春


 福島県の阿武隈山地の丘陵地帯に三春というすてきな地名の町があり、春になると梅、桜、桃がいっせいに咲き誇る。三春張子と三春駒人形そして三春の滝桜で有名である。三っつの春の小話と童謡唱歌を綴る。
湯島の白梅
(写真1)
湯島の白梅


平成6年市役所から、転居した家に贈られる梅の木を戴いた。8年目になり、1年ごとに多くの花がつき、実が生った。梅は3分から5分咲きが良い。写真1は、泉鏡花「婦系図」のお蔦、主税の舞台の湯島天神の「湯島の白梅」である。梅の咲く1月下旬、湯島天神と亀戸天神は木彫りのうそ鳥(写真2の中央3本)を売る。
湯島天神にて
(写真2)
湯島天神のうそ鳥


前年に求めたうそ鳥を神社に納め、新たにうそ鳥を求めれば<前年の凶もウソになり、吉にトリ替る>という神事からである。うそは学を頭にのせた鳥(鷽)と書き、最近うそ鳥が受験生に人気で、父兄が争ってうそ鳥を求める。
日本三大桜は、三春の滝桜(磐越東線三春駅下車)と岐阜県根尾谷の薄墨桜(名古屋鉄道新岐阜駅下車)と山梨県山高神代桜(中央線韮崎駅下車)で、いずれも樹齢1000年以上の銘木である。花見といえば昔は梅であったが、今は桜である。古典落語「長屋の花見」は、タマゴ焼きはタクアン、カマボコは大根、酒は番茶、毛せんはむしろで花見をし、酔ったふりをする話で、哀れと面白みを感じる。
同じく「花見酒」は、貧乏人同士が、花見で酒を売ってもうけようと考えたが、仕入れた酒をお互いに買い合って、酒を全部飲んでしまい、元手までなくしてしまうという話である。写真3は、花見の名所千鳥が淵の桜である。写真4は東北鎌先温泉に住むこけしやさんが作った玩具「花咲かじいさん」で、花は独楽になる。
千鳥が淵にて



(写真3)
千鳥が淵にて



花咲じいさん
(写真4)
鎌先温泉
花咲かじいさん



子供の頃に食べた桃はかたくまずかった。大学入学時、福島市内フルーツラインで桃の花(写真5)を観て、その美しさに驚いた。後ろに雪うさぎを残す吾妻小富士がそびえていた。卓球部夏合宿の帰り、八百屋で買った桃は、皮をむくと果汁が滴りおちみずみずしくて甘かった。
モモは桃(木と兆)、百々とも書き、豊かさを表し、3つのうちで一番好きな言葉である。桃太郎伝説に興味を持ち、吉備地方(岡山県)を歩き、お茶屋さんでキビ団子を食べ、桃太郎遺跡を探したが見付けられなかった。日本桃太郎の会会長小久保桃江(とうこう)さんは「桃太郎の話の中で、桃太郎は人的資源(健康)、キビダンゴは物的資源(富)を表しています。サル、イヌ、キジはそれぞれ知(文化)、仁(やさしさ、平和)、勇(勇気・防衛)を指しています。鬼は飢餓、病魔、貧困、戦争など。それらの悪を退治して、人間の幸福実現を高らかに面白くうたいあげたのが桃太郎童話なんです」と述べている。さらに同会長の「モモから生まれた桃太郎というストーリー(果生型)の他に、モモを食べたおじいさんとおばあさんが若返って桃太郎を生む話し(回春型)がある」という説明に驚いた。
中国では理想郷(ユートピア)は「桃源郷」と呼ばれ、桃は神や仙人の食べ物であったという。16世紀英国のトマス・モアは、ユートピアとは「どこにもない場所」「この世に存在しない土地」だったといっている。
当院常勤顧問であった恩師小島教授は童謡唱歌が好きだった。花見・暑気払・忘年会で教授自ら指揮をして、童謡唱歌を歌った。教授の影響を受け、原田泰治の絵本<日本の童謡唱歌100選>を眺め、酒を飲みひとりで歌っている。
この数年、私の楽しみのひとつになっている。本の中から三つの春を探すと、「鉄道唱歌」の中に<梅に名をえし大森を>、「花」に<われにもの言う桜木を>、「蝶々」に<なのはにあいたら桜にとまれ>、それに「さくら」、「うれしいひな祭り」に<お花をあげましょ桃の花>、「春よ来い」に<おうちのまえの桃の木の>などを見ることが出来る。
いずれも心暖まる歌詞である。好きなモモを食べて若返り?、小さい春を見つけたいと思っている。
(02年1月・第25号)

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1.8、お酒の話


東大医学部を卒業し、フランスへ留学し、東大教授を経て、現在原子力安全委員の重職に就いている先生に、「先生はお酒をお飲みにならないので、貴重な時間を有効にお使いですね」と、お話ししたところ、「そんなことはないから安心してお飲みなさい」と、言って下さいました。私には、何が安心なのか分かりませんでした。
一番好きなものは日本酒です。学生時代、吾妻連峰を仰ぎ、寮歌「紫深く霞み引く 今信夫路に春はきて 桜浮かべる阿武隈の 岸辺に座して酒を酌む ああ寮友の粋ここにあり」を叫びながら、イモ煮会で飲んだ日本酒は、格別でした。
写真1吾妻富士
写真1
吾妻富士

会津の「栄川」と「名倉山」、喜多方の「夢心」は名酒で、今も美味しく戴いています。ニクロム線の電熱器の上で、あじの開きをあぶって、寮生と飲む酒はひと味違いました。
2級酒1升520円、赤提灯で飲むコップ酒が一杯55円、仕送りが月2万円、月の授業料が2000円であった昭和40年前半の話です。
あぶさんのマンガがビッグコミック誌に連載し始めた頃です。写真1は、福島市内を見下ろす吾妻小富士で、頂に春の訪れを告げる「雪ウサギ」が浮かび上がっています。写真2は、猪苗代湖から見た表磐梯で、明治21年の大爆発で出来た五色沼など無数の池沼がある裏磐梯とは山容が全く違っています。会津磐梯山は宝の山です。
磐梯山
写真2
磐梯山


ウイスキーは何と言ってもハイボールです。学生の時「トリス」「レッド」を炭酸で割ったものを飲みました。ウイスキーが一升瓶に入っていた「キングウイスキー」も飲みましたが、決まってひどい二日酔いになりました。
一升がたったの500円でした。昔は田舎の酒屋に看板が出ていましたが、今はまったくお目にかかりません。私の大好きな山口 瞳(名著けっぱり先生をお勧めします)の影響で今でもハイボール党です。最近は、学生時代憧れだった角瓶のハイボ−ルを飲んでいます。
ビールは、コップ一杯だけで十分です。北アルプスの名峰常念岳の山小屋で飲んだ生ビールは、槍穂高連峰のパノラマを展望し最高でした。
かつて当院に赴任していた同僚は、自宅でビールを造り、勝田マラソン完走後ご馳走しくれました。焼酎は「真露」を水割りにし、キュウリのスライスを3切れ入れて飲んでいます。ポッピー割りもいけます。ウオッカは、ポーランド人に勧められ、グレープフルーツ割りです。
この10年、降圧剤を飲んでいるので、相乗効果を気にしながらの飲酒です。日本でよく手にはいるのは「スミルノフ」で、最近手に入った「ボンベイサファイア」「ショパン」は結構な味でした。ジンについては、学生時代生意気に「ジンリッキー」「ジンフィーズ」を注文した記憶があります。ワインは赤で、チリ、アルゼンチン、ハンガリーのものが安く、味に当たり外れがありません。10月にだけ飲むことが出来るシュトレームは、濁ったワインで、一度味わうと良いと思います。他に紹興酒、果実酒、甘酒、シャンペンを飲みました。
飲み過ぎた翌日の朝、枕元に置いたやかんの水をそのまま口にくわえて飲む旨さは、何者にも勝るものです。
酒、旅、恋を歌った若山牧水(1885〜1928)の酒の歌を3首掲げます。本当に酒が好きだった事が分かりました。朝に2合、昼に2合、晩に4合が一日の定量で、来客があると1日3升も飲んだようです。


足音を忍ばせて行けば台所にわが酒の壜は立ちて待ちをる
  さびしみて生ける命のただ一つの道づれとこそ酒をのもふに
  酒ほしさまぎらはすとて庭に出でつ庭草をぬくこの庭草を

以上は、筑摩書房・現代文学大系16・昭和41年発行からのものです。
当院常勤顧問で、私の恩師であった故小島 瑞教授は、仕事に厳しい人でしたが、酒に関しては寛容で、誰よりも酒を愛しておりました。
何が安心なのか分からないまま32年以上もお酒を飲んでいます。これからはお酒を静かに・楽しく・美味しく、司馬遼太郎・藤沢周平・山本周五郎の本を読みながら飲みたいと思っています。

かんがへて飲みはじめたる一合の二合の酒の夏のゆふぐれ
  うらかなしはしためにさへ気をおきて盗み飲む酒とわがなりにけり
  朝酒はやめむ昼ざけせんもなしゆふがたばかり少し飲ましめ
  妻が眼を盗みて飲める酒なれば惶(あわ)て飲み噎(む)せ鼻ゆこぼしつ
  白玉の歯にしみとほる秋の夜の酒はしづかに飲むべかりけり

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1.9、追っかけ中年・神輿


京都は豪華な山車を持っているのに、東京は江戸っ子が代々受け継いできた山車を東京大空襲で失ったことに気付いた。戦後高価な山車に代わって、沢山の神輿が東京の街に登場したことを知り、大学の医局から離れた1980年、神輿の追っかけを始めた。
私の好きな町・東京は、いろいろの祭りが一年中何処かで行われいる。年々、東京人が空洞化現象で少なくなり、町内の人だけで神輿を担げなくなり、関東甲信越に住む祭り愛好会所属の若者が東京に集結し、各町内の法被を着て神輿を担ぐようになった。
神輿は、神が移動する時の乗り物で、古代では榊が用いられていた。輿が使われるようになったのは平安時代からで、今のような神輿になったのは室町時代以降で、大都会で発達したものである。追っかけ回数の多い浅草三社まつりを中心に、富岡八幡宮の水掛け御輿、房総半島大原のはだか祭りを紹介する。
首からスライド用一眼レフとプリント用バカチョンカメラをぶら下げて、5月中旬(18日付近の土・日)三社まつりに出かけた。多数のアマチュアカメラマンが、携帯用脚立を肩にかついでいた光景を見て圧倒された。
カメラ位置の確保で勝負が決まると、隣のカメラマンからアドバイスを受けた。町内御輿の他に、本社御輿が三つあり、何処を何時に通過するか書いた地図が配られた。
本社神輿は、鳳凰の下に一の宮、二の宮、三の宮と書いた木札が吊してあり、真っ白い晒しが太い胴に巻かれ、三本のピンク色の紐がくくられ、4面に鏡が掛けられている。その姿には貫禄と共に何ともいえない気品が漂っていた。
多くの見物客、担ぎ手が夢中になることもうなずける。ガードレールに昇り電信柱を背にして、さらに歩道橋の上からシャッターをきった(写真1)。
浅草三社まつり

(写真1)
浅草三社祭り


ひとつの町内が2時間の持ち時間で本社神輿を担ぎ、町内間の交替シーンがはなかなかのものである。色柄の違った法被を着た2町内が対峙し、若者が先棒争いをするのである。日曜朝6時の宮出しが祭りのハイライトであるが、今だ現場で見たことがない。
テレビで、早朝4時から8時まで御輿の先棒獲得の争いで、激しい喧嘩があったと報道し、1度その機会を持ちたいと考えている。そのためには最終列車で浅草に行き夜が明けるまで待たねばならず体力が必要である。
夜8時の宮入りを見に浅草寺の階段に場所を確保し、期待して待ったが、事故防止優先で、静かな幕切れであった。担ぎ棒の上面に三角の棒を固定し、棒の上に昇れないようにしてあった。直径10センチ位の神輿だこが、両肩に盛り上がっている神輿担ぎのプロが多数見られた。
掛詞をひとつ「三社祭りと掛けて、隅田川の花火ととく、その心は、共に江戸の華と美」(祭酔亭酒酔人)
3年に1度、8月14から16日に行われる富岡八幡宮の水掛け御輿を見物した。八幡宮は歴代の大相撲力士の記念碑で有名である。
大きなトラックの荷台をビニールで裏打ちし、防火ホースで満水にし、約20人位の人が荷台に乗り込み、水をバケツですくって、神輿にかけていた。
町内の人は、沿道にバケツを持ちながら見物し、神輿めがけて水をかけていた(写真2)。

富岡八幡宮の水掛け御輿



(写真2)
富岡八幡宮の水掛け御輿




家から水道のホースを引っ張り、水をかけている人も多数いた。
「水かけ神輿とかけて、富岡芸者の米丸・卒丸姉妹ととく、その心は、江戸っ子の粋(いき)」(走酔帝狂酔丸)
他に、山王(日枝)・神田・くらやみ(大国魂)・下谷・鳥越・万灯(隅田稲荷)まつりがある。 (付)9月23・24日房総半島外房大原のはだか祭りを見た。
大原は椿で有名である。無理な姿勢で土手に登る時ぎっくり腰になり、帰りの車中は地獄の痛みを味わった。翌月曜日は病院を休み座薬の世話になった。
長い二本棒の神輿が10基以上集合し、九十九里浜の荒海の中で、数時間もみ合う様子はなかなかのもので、神輿を差し上げた情景は写真になる(写真3)。
大原はだか祭り

(写真3)
大原はだか祭り



首から2台のカメラをぶら下げ、右肩に脚立を、背中にザックを背負い、右手に缶ビール、左手にいかのげそ焼きを持っている中年を見つけたら、声をおかけ下さい。

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1.10、じっさまと長寿


私の祖父は、明治16年生まれで、下駄小売業を営み、108才9ヶ月の天寿を全うしました。
平成3年9月に亡くなるまでの最後の3ヶ月間は男性長寿日本一という輝かしいおまけがつきました。写真1は本人自筆の記念手拭いで、写真2は記念湯飲みと親戚に配布した小寸こけしです。
じっさま自筆の記念手ぬぐい



(写真1)
じっさま自筆の記念手ぬぐい



記念湯飲みと小寸こけし

(写真2)

記念湯飲みと小寸こけし



私の勝手な解釈ですが、祖父から学び取った長寿の秘訣?を報告したいと思います。
おしゃれでした。毎日自分でズボンを寝押し、散歩の時はプレスしたズボンに着替え、杖を色々取り替えて103歳まで散歩しておりました。
生活にリズムとアクセントが必要と思います。
立ち直りが早かったです。103歳の夏、肺炎で初めて入院した時の出来事です。病室内のトイレ到着寸前で、大便をそそうをしてしまいました。30分間は首を垂れしょげかえっていましたが、突然「車椅子で病院内を案内してくれ」と言い出しました。
カーテンで隠していたのですが、病院隣の墓地を見た祖父は「この病院は便利な所にできている」と突然元気を取り戻し、落ち込んでいた事をすっかり忘れてしまいました。立ち直りが早いという意見と、老人性痴呆症の為という意見がありました。
お金への愛着が人一倍でした。毎日何回も、首に下げた財布からお金を取り出して、うっとりしながらお札を数えていました。
毎朝、ベットの周りに千円札が落ちていました。夜、自分で長い紐を引っ張って電気をつけ、財布からお札を取り出して枚数を数えるが、お札を財布に戻し忘れて途中で寝てしまい、ばらまいてしまったようです。
自分に甘く、他人に厳しい人でした。毎日一生懸命に祖父の世話をしている当時71才の母に、「自分は先が無いからもっと大切に世話をしろ」と言ったそうです。
ちなみに母は腰が曲がり、骨粗しょう症で、腰痛持ち、祖父は5年間寝たきり老人です。母は、「どちらが先か分からない」とグチっていました。
目標を持っていました。「俺は絶対日本一の長寿者になる(長者だったら良かったのですが)」と始終言っていました。目標が達成したのですから、大したものです。
食事は一日二食でした。昼は一合の牛乳です。腹八分目で、過食はせず下戸でした。毎日朝晩同じ食事で、ご飯、玉子入り味噌汁、鮪の刺身3切れ、トマト3切れ、小豆入りあんこ、こうなご、煮物でした。好物は、中トロ鉄火丼でした。
時代が良かったと思います。経済企画庁長官堺屋太一氏が名著「風と炎と」の中で次のように述べています。…65才以上の高齢者の割合が少なく、15才未満の若年者層が多かった時代はよかった。
日本人は、数少ない高齢者を手厚くもてなすことを美と思っていた。これを『好老社会』と呼ぶ。生活が豊かになると子供が減り、住宅事情が良くなっても社会福祉がよくなっても出生率は低下する。1960年頃は15才未満の子供は30%を占め、65以上の高齢者は8%だった。しかし2000年迄に子供と高齢者の割合が逆転する。
今の世界では、人類は「若く見える」事を喜びとし、「老けている」事を嫌う。現代は好老社会でなく『好若嫌老社会』で、高齢者隔離の方向に進んでいる。著者は、今後の人類の目標は、『好老社会の創造』であると提言しています。
おわりに。50歳定年から58年間生き抜きました。公務員であったらなあと思います。20歳の頃、国鉄(現JR)でアルバイトをしていました。列車による轢死体の処理が嫌で辞めてしまいました。58年でいったいいくらの恩給がいただけたのでしょうか。
祖父の弟は国鉄に勤め、45年間恩給を貰い、高級住宅に住んでいました。私の両親は、現在ビー玉が転がる傾いた家に住んでいます。法事で一族が集まると話題に出るのが、祖父はいったい誰の寿命を奪ったのかです。

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2.1、病理のお仕事


 最近「病理の先生は解剖以外にどんな仕事を」という質問を受けることが多い。
卒後30年間に、親に何十回と病理について説明したが、いつも最後は「おまえは何科で開業するのか」という質問が返ってきたものだ。こんなことから、病理の仕事を説明する。
 病理は、@生検・細胞診検査、A手術材料検査、B解剖検査の3部門からなっている。
@胃に痛みがあった場合、胃の中に小さなカメラを入れ、病変部を採取し、顕微鏡で良い病気か悪い病気かを判定する。生検検査である。また、痰や尿に出ている細胞を検査するのが細胞診検査である。
A病変部が悪いもの(がん)と判定されると、手術がなされ、手術材料を短冊状に切り出し、標本から病変部の地図を作製する。がん細胞が増殖している胃壁の深さ(表層の粘膜に限局しているのか、深層の筋層あるいは筋層を越えているのかを判定する)と、がん細胞が血管内、リンパ管内あるいはリンパ節に入り込んでいるか、手術断端面や切離面に顔を出しいるかを判定する。以上が手術材料検査である。
B臨床医の懸命な治療にもかかわらず、原因がはっきりしないで亡くなられた時は、故人と一番近い親族の許可を戴き、死体解剖資格認定証明証(大学教授の指導の元で5年以上病理学を研修し、20体以上の病理解剖を行い、厚生省に申請し、厚生大臣から戴く)を持つ認定病理医によって解剖がなされる。
肉眼所見と顕微鏡所見で原因を判定し、今後の医療に役立てる。以上が解剖検査である。病理解剖報告書の提出後、臨床医と病理医は検討会を開き、問題点を充分に議論しあう。研修指定病院申請のために、年間の解剖数が病床数の10%の50体が必須条件で、我々一同はその対応に出来る限りの努力をしている。
いつでも出動できるように晩酌は2合までと定めている。解剖、写真撮影、肉眼所見の記述、検体の切り出し、検鏡、剖検報告書作成、日本病理学会への剖検書類提出という一連の作業を行い、1体の解剖業務に約8時間かかる。病理医、技師の協同作業である。
 標本作製には以下の2通りある。胃カメラで採取された直径約2〜3mmの検体をホルマリン(呼吸器と皮膚に対し有害物質)で固定し、アルコールとキシロール(呼吸器系有害物質)で処理し、パラフィン(ロウソクのロウ)に埋め込む。パラフィンブロックという。ミクロトームという機械で、パラフィンブロックを約4ミクロン(1mmの1000分の4)の厚さで切り、ガラスに貼る。替刃の普及が大きな進歩をもたらした。
卒業したての頃は毎日刀を研ぐ仕事があった。パラフィンを溶かし、自動染色装置で染色する。細胞の核は青色、胞体は赤色に染め分ける。接着剤を載せ、自動封入装置で薄いガラスで被うと出来上がりである。
 尿中の細胞は、試験管を遠心機で回し、細胞を試験管の底に集める。特殊遠心機で直径約5mmの中に細胞を自動的に集め、細胞をガラスの上に付着させる。アルコールで細胞を固定し、染色する。細胞の核は青色、細胞の胞体は赤色と緑色に染め分ける。1次と2次の難しい細胞診試験を合格した技師(細胞診スクリーナー)が細胞の良性悪性を判定し、病理医が診断する。
 他に手術中の迅速検査がある。−20度で凍らせた未固定生標本で切片をつくり、腫瘤が悪性か良性か、断端部にがん細胞が残っているかの判定をする。約10分という短時間で標本を作製し、各手術室と直通電話で病理診断を伝える。手術断端部にがん細胞が残っていれば追加切除が行なわれる。凍結切片はパラフィン切片より数倍厚く、核が重積しがんの判定が難しい。
 病理検査技師は特殊技術を持つ職人で、仕事の多くは手作業である。生検・手術検体の処理、標本作製、系統解剖学の理解、病理解剖の手技をマスターするには多くの時間とトレーニングが必要である。有害物質が多く、スタッフの健康管理のために換気装置の設置が望まれる。ホルマリンは重く床面から排気し、きれいな空気を天井から吸気する事が必要である。アルコールとキシロールは発生部からの直接排気が必要となる。
 病理検査は全身の臓器を診断するため、年間約1.5%の症例(約100例)は、スペシャリストによるダブルチェックとコンサルテーションをお願いしている。ひとり病理医にとって一番重要なのは、何人のスペシャリストと交流を持っているかである。自分の診断能力を超えた症例を容易に診断してはいけないと自分に言い聞かせている。
 最近の大学病院ではテレパソロジー(テレは遠いパソロジーは病理の意味、地方病院のためのインターネットを利用した手術中の遠隔病理診断)を行ない、地方病院手術室と大学病院の病理室を電話回線でつなぎ、短時間で病理診断を行なうことで地方医療のお手伝いをしている。術中診断を行なえない時は再手術をしなければならない場合がある。
 仕事について標語もどき短文を作った。
<解剖業務について>
  ポケベルと携帯電話枕元 朝を迎えてほっとする一瞬
  ピーピーと鳴る機械音 暗闇の中のポケベルの電池切れ
  ポケベルでスポーツジムからお呼びだし 解剖業務で技師さんに感謝
  新年度新人先生がんばれよ 勉強になるよ解剖の見学
<病理診断業務について>
  分からないことが分からなくなり 動脈硬化かアルツハイマーか
  良性を悪性としたら手術され 逆だったらばああ恐ろしや
  今日もまた難解例に時間食い 捨ててしまいたい貴重な標本
  観たことある像なんだっけ カラーアトラス絵合わせゲーム
<健康問題について>
  ホルマリン体にわるい固定液 床から排気天井から吸気 
  目鼻のどしょぼしょぼホルマリン ガスマスクつけいざ切り出しを
  キシロール神経麻痺させどうするの 定年後に気づく体の不調
  アルコール朝から嗅いて酔っ払い アフターファイブでまた酔い戻す
<病理学の現状について>
  頭から足の先まで勉強し 時間かかるよ病理の研修
  考えよ研修制度の見直しを 人体病理医希望者減少
  本読めば沢山あるよ病気の名前 自信が出たころ定年退職
  医学界遺伝子診断全盛時代 人体病理これからどうなる

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2.2、高木の慈恵と北里の慶応


政界と東大閥と軍医を中心とする官の権力に対し、毅然と対処し、官職を辞し、私立医学校を立ち上げた二人についてまとめた。
ひとりは、脚気論争を展開、脚気予防法を訴えたが聞き入れられず、東京慈恵会医科大学を創設した高木兼寛(1849‐1920)である。もうひとりは、私立伝染病研究所(旧伝研)を創設し、多数の成果をあげたが東大権力によって追い出され、私立北里研究所を作りさらに慶応大学医学部を設立した北里柴三郎(1852-1931)である。附属病院の芝病院が現在の済生会中央病院である。
1915年のこと。吉村昭著「白い航海」と篠田達明著「闘う医魂・北里柴三郎」を参考にした。
 脚気はビタミンB1欠乏症で、白米病・江戸わずらいと言われ、徳川第3、13、14代将軍が脚気で死んだ。当時脚気は戦争前の結核や現代のエイズと同じ不治の病であった。
精白された白米で鶏を飼うと人間の脚気に似た症状が現れる。
脚気は足のむくみ、手足のしびれ、動悸、食欲不振、歩行障害、視力減退を示し、重傷者は心臓麻痺で死んだ。末梢神経の軸索が変性、崩壊し、細胞浸潤を示し、多発性神経炎がおきる。
 当時日本の医学機構は3つあった。
@東大(文部省)は適塾の長与専斎が、
A陸軍医学は佐倉順天堂の松本良順(司馬著・胡蝶の夢)が、それぞれドイツ医学を取り入れた。独医学導入は、佐賀生まれの相良知安が提唱し、佐賀出身の副島種臣と大隈重信、元鍋島藩主鍋島閑叟、元越前藩主松平春嶽が賛成した。佐倉順天堂(1839開設)の佐藤泰然と息子の舜海と進、司馬凌海、ポンペが加わった。基礎医学とくに病理学と細菌学を重視した。一方、
B海軍医学は戊辰の役で活躍したウイリスの指導を受け、イギリス医学を採用した。英医学は実証主義に基づく病気の治療を重要と考え、薩摩の西郷と大久保、福沢諭吉と元土佐藩主山内容堂が後押しした。
結局英医学は排除され、我が国は以後オランダ医学にかわりドイツ医学を採用することとなった。
 高木兼寛は宮崎県生まれの薩摩の人、父は大工。20才で鳥羽伏見の戦いに官軍の医者として参加。会津との戦争で平潟(高萩市)へ上陸、平藩を倒し、三春、二本松を降伏させた。戊辰戦争中、ウイリスが行なった足切断手術を見学、英医学に興味を持った。海軍医学校に勤務し、ウイリスの勧めで1875英国セント・トーマス病院(ナイチンゲールで有名)へ5年半留学した。
 地方の次男三男は、米がたらふく食べられるので兵隊を志願した。軍隊の食事は金で支給され、小兵は大半の金を国元へ送った。米だけを食べ副食物を摂らなかったので、士官より脚気にかかった。窒素成分の蛋白質が少なかったのである。
海軍は4500人中1500人が脚気にかかり32人が死亡、その後4年間で146人が脚気で死んだ。南米への実地航海訓練中378人のうち23人が死亡した。
外国の港に碇泊中は洋食・肉食を食べていたので脚気にかからなかった事実から、1882から86年にかけて、高木は麦飯と肉食の実験を行い、仮説が正しいことを証明した。しかし脚気予防制度の確立は政府が独医学重視であったため困難を極めた。
日清戦争(1894)で海軍は1名、陸軍は4000人が脚気で死んだ。日露戦争(1904)で海軍は海兵5000人中死亡者はなく、陸軍は陸兵5万人中2.8万人が脚気で死んだ。陸軍が米食至上論と自給自足を唱え続けた結果の悲劇となった。それに対し海軍は、脚気予防法を確立し、日本海軍の脚気を根絶した結果、日清日露海戦を勝ちぬいたのである。
 森鴎外(1862-1922)は津和野の人、東大医を卒業後、ドイツに留学し衛生学を研究、陸軍軍医総監に昇進した。森鴎外は終始米食至上論を唱え、海軍における洋食と麦飯を一貫して批判した。
加えて、東大の緒方正規細菌学教授は「脚気病菌発見」と発表、空気感染から避けるため住居の改良を訴えた。陸軍は、木が唱えた脚気の米食原因論には理論的裏付けがないと終始反対した。陸軍軍医の中に脚気が囚人に少ない事実に気づいていた人がいた。
囚人は麦飯を食べていたからである。東大と陸軍軍医部の権威主義が木の脚気米食原因説を批判し続けた。
犯罪である。海陸両軍の対立となった。写真1は25才の木である(慈恵医大史料室提供)。
 以下整理する。漢方医遠田澄庵は、1878年脚気の米食原因論をすでに報告。1882年木は海軍で兵食改革を実施。1911年鈴木梅太郎は「オリザニン」、フンクは「ビタミン」を発表。1919年島薗は脚気の動物実験に成功。1920年高木死亡。1921年大森は脚気の人体実験を報告。1925年脚気はビタミンB1欠乏症と確定。1926年ヤンセンとドナートは米糠から結晶を精製。1929年ビタミンB1発見のエイクマンはノーベル賞を受賞した。
 板倉聖宣は「模倣の時代」のなかで、脚気論争を総括している。高木は「論より証拠」でなく「証拠より論」をおしとうし、西洋(特にドイツ細菌学)の模倣に対する警鐘のひとつになったと述べている。
 北里柴三郎は庄屋の長男、19才で熊本医学校に入学、恩師の退職に伴い23才で東大に再入学した。34才でドイツ・ベルリン大コッホ研究室へ留学、37才で破傷風菌は嫌気性で熱に強い事実を発見、破傷風菌純粋培養の濾液(毒素)が破傷風を引き起こすメカニズムを解明、細菌毒素で免疫した血清(抗毒素)を与えると病気にかからず、感染し発病してもなおる治療法(血清療法・現免疫療法)を確立した。
欧人だったら「破傷風の血清療法」で1901年第1回のノーベル賞を単独で受賞したと思われる。一歩引いても、「破傷風とジフテリアの血清療法」でベーリングと一緒に受賞をしたと考える。実際はベーリングが「ジフテリアの血清療法」で受賞した。誠に残念。
後日ベーリング自身は、北里の先駆的研究と献身的な協力のお蔭でノーベル賞の仕事が出来たと強調している。40才でドイツから帰国したが、横槍が入り復職できなかった。
上司の長与専斎は北里の国外流出をおそれ、緒方洪庵の適塾(司馬著・花神)の仲間である慶大福沢諭吉(1834-1901)に相談し、福沢は土地と研究所を無償で提供、私費援助を行なった。港区芝公園内に私立伝染病研究所を開設した。パスツール研究所とコッホ研究所をモデルに、10坪の私立研究所から出発したのである。7年後国立に移管。
20年後、突然内務省管轄から財政再建策という名目で文部省傘下になった。謀略である。内務省の旧伝研が文部省東大の附属研究機関に格下げになり、20年かけて育て上げた研究所を政界、医学界、軍部の圧力で簡単に奪い取られたのである。相手は天皇の侍医で東大医学校校長の青山胤通、大隈首相の主治医を勤め、森鴎外の応援を得ていた。
敵は北里を「研究者というより政治屋、事業家、独裁者」と見ていた。北里側は結核療養所が母体となり、原敬、長与専斎、後藤新平、全国医師会が応援した。断固反対し直ちに旧伝研を辞職、私立北里研究所設立を設立した。65才北里研究所を母体に慶大医科を再興した。
東大頂点のピラミット型教育システム、研究至上主義と閉鎖性の打破を目指し、病人と開業医のための大学設置を行なった。職員には怖れられ、患者さんにはやさしく、看護婦さんを重視し大切にした。北里のペスト菌、志賀の赤痢菌、秦の駆梅薬サルバルサン、北島の抗ハブ血清、狂犬病ワクチン等の発見がなされた。
 北里研究所創立50周年を記念し、昭和37年に私立北里大学が出来た。一方、東大付属伝研は、昭和42年医科学研究所(医科研)と名を変え、癌の遺伝子治療と免疫療法、エイズ治療で成果を上げている。写真2は北里柴三郎記念室のパンフである。
 官対民・医学編に関わった人物を紹介した。東大閥の医学支配に終始抵抗した反面、政界、官界、学界の代理戦争に巻き込まれたようである。政治官僚の世界は二枚舌がきくが、科学はそれがきかない。
この脚気論争と旧伝研移管に森鴎外が見え隠れする。権力願望が極めて強く競争相手を許せない性格のようである。文豪森は文壇では名を成したが、医学では百害あって一利無しという人もいる。高木と北里は下野させられたが、勝者となり、私立医学校をつくり、研究本位の医学でなく患者本位の医学を創造したのである。

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2.3、うつくしまいじん伝(1)


 福島市は中通りに位置し、1時間で海、山、湖、温泉、スキー場へ行くことができ、風光明媚なところである。1967年から80年(18才から31才)まで阿武隈川のほとりで、毎日吾妻連峰を眺めながら暮らした。第二の故郷である。福島が生んだ偉人(医人)を紹介する。
 2003年は吉田富三生誕100周年で、癌研究の記念イベントが企画されている。親は作り酒屋。小学校卒業後、進歩的な母親は「人のためになる人間になれ」と東京の学校へおくりだした。
東大卒業後、佐々木隆興と巡り会った。佐々木家は代々医師の家系で、東洋、政吉(東大教授)、隆興(京大内科教授)と続き、御茶ノ水の神田駿河台にある杏雲堂病院の院長を勤めた。隆興は化学物質による臓器の形態学的変化をテーマに研究を続けていた。吉田と研究を行ない、深紅色の色素を油に溶かし、米粒にまぜて120日以上ラットに食べさせると肝臓ガンをつくることが出来た。昭和7年(1932、5・15事件)のことである。直接接触する食道と胃に変化がなく、離れている肝臓にガンが出来たのである。世界ではじめて化学的刺激で内蔵癌を作るのに成功した。
吉田富三

吉田 富三


なお、皮膚ガンは大正3年(1914)山際勝三郎と市川厚一がコールタールをウサギの皮膚に塗布してつくられた。
 アゾ色素でつくったラットの肝細胞癌を乳鉢ですりつぶし乳状にしてラットの腹腔へ注入したが、腹水癌は出来なかった。アゾ色素をえさに混ぜて3ヶ月間食べさせてから、ヒ素化合物をアルコールに溶かし1週間に3回皮膚に塗布した。塗りはじめてから4ヶ月後に右睾丸に腫瘤が、2週間後に左睾丸に腫瘤ができ、腹部が腫れてきた。
昭和18年(1943)のこと。ラットの腹に牛乳のような白濁した水がたまり、腹水中にガン細胞がうようよ浮いてきた。腹腔内に移植可能な腹水癌がはじめて出来たのである。畑(間質)が無い状態でガン細胞がとれ、ガンの実験に有用な系ができたわけである。長崎系腹水肉腫の誕生で、昭和23年吉田肉腫となった。移植が簡単で、制癌剤への道が開けた。長崎時代に腹水癌を発見したが、その時考えると東京・佐々木研究所でもこれと同じ腫瘤ができた動物があったようだったと述懐している。
現象に気づくことが大切なのである。
 戦時中の昭和19年、4匹の腫瘤を植え継いだ腹水癌ラットと10匹の移植のためのラットを長崎から東京へ、それから仙台へと移送した。食糧難の時代、家族と自分の食べ物をラットに与え、汽車を乗り継いでラットを運ぶ苦労は想像がつかない。長崎大教授から東北大教授への栄転が無かったら、腹水癌はなく、癌研究の成果も無かったろう。後任の長崎大病理学教授は講義中原爆投下の犠牲になった。
 昭和26年(1951)石館守三との協同研究で、細胞分裂を抑制する抗がん剤ナイトロミンの合成に成功した。抗がん剤研究のスタートである。現在、ある種のリンパ腫が結核なみに治るようになったのである。
 昭和46年(大学5年)秋、医学祭記念講演をしていただいたが、講演内容を全く覚えていない。学生運動がやっと鎮火し、残務整理をしていた時、無気力になった学生をまとめ、医学祭を成功させた実行委員の努力に感謝したい。私が卒業した昭和48年に70才でなくなったので、病理学会でお会いした事はない。吉田家の墓(駒込吉祥寺)にラットの墓(シロネズミの碑)がある。
 顕微鏡を考える道具とした最初の思想家といわれた。富三語禄を以下に記す。人生に理想をもたない者は論外だ。癌には個性がある。人生とは思い出の集積である。病理学は死を納得するための学問だともいえる。納得できない死のひとつが戦争死である。病理学者というのは死者の唯一の仲間なのだよ。医師は社会の優越者でない。医師には自己犠牲を伴う。かばんの帯に「時は金なり」と。
 水戸から北100kmの所に花火の里・浅川町(福島県石川郡)があり、約10年前にできた吉田富三記念館(写真)を見学し以下メモしてきた。標本のラベルに1960年福島医大病理と印刷された胃の手術標本があったのが不思議であった。
おしゃれでコートをはおり、パイプ収集が趣味だった。音楽を楽しみ、絵をよくし、セザンヌの絵が好きだった。亡くなる直前まで司馬遼太郎の「逆の上の雲」を読んでいた。国語(漢字仮名交じり、表意文字)教育の重要性を訴え、漢字廃止論に反対したという。吉田富三の長男で、NHK大河ドラマの名プロデューサー吉田直哉著「癌細胞はこう語った」と、塚本哲也著「ガンと戦った昭和史」を参考にした。
生活のため東大を飛び出し人生を切り開いた病理学の怪物である。多くの弟子を育て、若者に夢を与え、面倒見の良い人であったらしい。

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2.4、うつくしまいじん伝(2)


 福島の偉人(医人)を紹介する。野口英世(1876-1928)は明治9年磐梯山の麓、小原庄助さんの猪苗代で生まれ、幼名清作、囲炉裏で左手を火傷した。
20才、合格者が80人中4名という難関の医術開業試験に合格。21才、順天堂医院(現順天堂大医学部)を経て、伝染病研究所(旧伝研、恩師福沢諭吉の援助で北里柴三郎が創設)へ入った。
東大出の研究者が幅を利かせていて苦労したようだ。坪内逍遥著「当世書生気質」の中に、主人公野々口精作があそび人として描かれていたので、清作から英世へ名を変えた。伝研を訪れたペンシルバニア大学病理学フレキスナー教授と出会った事が大きな転機となった。
野口 英世

野口 英世


 23才で渡米。教授の元で蛇毒(赤血球を溶かす)を研究し、ガラガラヘビの抗毒素の免疫血清を10ヶ月で作った。研究だけは他人の助けを借りず、不眠不休、夜を日についで、一瀉千里で仕事をやり、スタッフから「人間発電機」「24時間人間」と呼ばれた。27才、創設時のロックフェラー研究所助手になり、さらに正職員に昇格した。
 34才、梅毒病原菌スピロヘータの培養に成功した。試験管内に腹水を入れ、兎の腎臓片と睾丸で分離したスピロヘータを加え,液の上に油を浮かせ、ガラス器の中でポンプを使って空気を抜く方法だった。現在、野口の純粋培養は追試が試みられたが成功したものはなく、この業績は疑問視されている。38才、精神病の半分を占める麻痺性痴呆症と脊髄ろうの原因が梅毒である事を証明した。これが現在でも受け入られている業績で、ノーベル賞に値すると言われている。スピロヘータは従来の染色法では染まりにくく、背景を墨で黒く染める方法や銀メッキをして見る方法がある。いずれも判定が難しかった。約一万枚目の標本でやっと隠れていたスピロヘータを発見出来た。今まで見た標本を見なおしたらすべての標本に確認できた。根気強く顕微鏡を観察した結果である。梅毒の治療を行なえばある種の精神病が治ったのである。
 40才、日本に凱旋し、有名な昼餐会が大阪箕面公園の琴の家で開かれた。<琴の家における野口博士の孝養>として語り継がれている。野口は母シカに出された刺身、焼魚、松茸のお汁を一つ一つ説明しながら、自ら箸でとって母の口へ運んでやった。偉い先生方が居並ぶことなどかまわず、ひたすら老いた母に孝養を尽くした。名妓さんが感動して泣いたと新聞に報道された。
中南米で行なった黄熱病研究でレストスピラ菌として発表したが、受け入られなかったので、これを証明するためにアフリカへ渡った。彼は黄熱病には南米型とアフリカ型があり、開発した野口ワクチンは南米型にだけ効くと考えたらしい。野口は南米で罹患し野口ワクチンが効いて治り、アフリカでは治らず、最後に「私には分からない」という言葉を残してアクラで死んだ。
ピークを上り詰めた40才から亡くなるまでの期間は、多くの細菌がすでに解明され、残りは僅かであった。素焼きを通すウイルスの存在が不明であった。黄熱病は高熱、黄疸、頭痛、呼吸困難を発症し、3、4日で死亡、致命率が40から70%であった。ウオルター・リードが黄熱病ウイルス説を発表し、マックス・セイラーが黄熱病ワクチンをつくり、1951年ノーベル賞に輝いた。野口はトラコーマ研究でうまく行かず、小児麻痺と狂犬病の原因の発見でも間違っていた。いずれもウイルス性疾患であった。
 渡辺淳一は「遠き落日」の中で、野口英世を、大言壮語、図々しい、鉄面皮、大胆不敵、野心、傍若無人、天真爛漫、金に破廉恥、浪費癖、借金の天才、あそびずき、渡米旅費を酒と女に浪費、スポンサー探し・自慢話・演説・処世術・気分転換がうまい、かたり、放蕩、情緒昂揚型性格、金銭的に性格破綻者、名文家、虚栄心、照れない、語学の天才、法螺、借金魔、ナルシステックな性格、癖がある、平衡感覚がない、生活人として欠落者、完全主義、孤独、唯我独尊的仕事、奇行が多い、エゴイスト、法螺を吹いて新しいファイトに、躁鬱的性格、自分を臆面無くプッシュする、哀願することに恥じない、不具でおさえつけられてきた日頃のうっぷんをはらす、と表現している。それらはいずれも彼の才能であると規定している。
 スポンサー探しがうまく、多数のパトロンがいた。小林栄先生は高等小学校教諭、パトロン第1号。会津で出会った東京の歯科医師血脇守之助が第2のパトロン。大口パトロンに星製薬社長星一氏と今の金で2〜3000万円の援助をした地元の大金持ちYさんがいた。Yさんの子孫が私の大学の2年先輩にいて、現在外科医院を開業しているが、1970年頃そのような小話があり、1980年「遠い落日」を読んで、その記述に驚いた。その他小口パトロンとして、学生、同僚、隣人と顔を会わせた多くの人から無心した。野口に会うのを怖れたらしい。
 渡辺淳一のあとがきと郷原宏の解説は以下にまとめている。裸の野口像を書き野口の偶像のうち一部を破壊したが、素直な野口像がかえって身近な存在になり蘇えり、野口像は我々に感動させる存在になったと考える。野口の業績にはいくつか誤りがあるのは事実だが、40才以降の研究対象はすべてウイルス性疾患で、光学顕微鏡では見えず、電子顕微鏡はまだ発明されていなかった。細菌学からウイルス学への過渡期を送った悲劇の学者といえる。
これが自然科学の厳しさである。一人の人間として精一杯に激しく生き、強烈な個性と魅力は誰もが納得する。研究だけは他人の助けを借りなかったのである。郷原は「時代と読者が現物とは似ても似つかぬ英雄像つくりだすことになったのである」、「軍国主義の国威発揚と領土拡張政策が、過度の刻苦勉励と親孝行という偶像を作り上げた様である」、「伝説や神話に類するものが修身教科書になり教育の教材に利用されたのである」、「モラリスト、ヒューマニスト、国際的文化人として描かれ、生きた人間の伝記にはほど遠い児童向け伝記、立身出世物語とし、努力と忍耐の重要性を説いている」、「ヒューマニストとエゴイスト、細菌王と借金王、親孝行と道楽息子、国際人と日本人と対比できる」と述べている。
 本人はノーベル賞を取れると語っていたが、戦争国であったことが不利であった。馬場錬成は「ノーベル賞の100年」の中で、逆境をはねのけて世界の医学研究のトップと渡り合った野口の業績は学問的にいくつか誤りがあったとしてもいささかも損なわれることはなく、これを補ってなお余りあるものを世界の医学界と日本人に残した」と述べている。他に、平澤興著「医学の足跡」を参考にした。  2004年、夏目漱石に替り野口英世が新千円札に登場する。

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2.5、うつくしまいじん伝(3)


 福島が生んだ偉人(医人)大原八郎(1882‐1943)と夫人リキの話を紹介する。
 野兎病(大原病)は野兎との接触感染症で、野兎の皮をはぎその肉を料理したひとにかかるが、その肉を食べたものには発病しない正体不明の病気であった。悪寒戦慄、野兎に触れた方の肘や腋窩のリンパ節腫脹、を特徴とする病気である。野兎の間で野兎病をひろめているのは一種のダニで、人間が直接ダニから野兎病をうつされることはない。セフェム系抗生物質は無効で、ストレプトマイシンとテトラサイクリン系が有効である。
病理学的には結核、梅毒、癩と同じ特殊性炎に分類され、中心部に膿をつくることが結核と違う。野兎の間では多くは敗血病で斃死するが、日本人の死亡報告は無い。アメリカの菌は強く死亡率は5%であった。  大原は旧姓阿部、農家に生まれ、大原家の長女リキと結婚し養子となった。子供の頃の夢が、「便所でも寝られるくらいきれいで大きな病院を建てること」だった。京大を卒業し耳鼻科と外科を専攻し、東北大助教授を経て、福島市にある家業の大原総合病院の副院長を勤めた。1923年(関東大震災)12月、親子3人が同一原因で、同症状を呈し、しかも同時に侵されて来院した。母が生きた野兎を捕まえ、弟に剥皮させ、兄に料理をさせたという。大原41歳。
 1925年大原は、「野兎を介して感染する急性熱性疾患について」を発表した。野兎病で死亡した野兎の心臓を無菌的に取りだし、健康な3人の左手に血液を塗った。
人体実験である。大原夫人リキには、兎の血液を塗ってから20分後に石鹸洗浄しただけで消毒しなかった。2日後軽い頭痛と塗布部腋窩に疼痛を覚え、4日目悪寒発熱が出現、血液を塗った方の肘や腋窩のリンパ節が腫れてきた。野兎の間に流行する野兎病と同じものが人間に感染したのである。病原菌が人間の健康な皮膚を通過して侵入する事がはっきりしたわけである。18日後腫脹したリンパ節を摘出した。残りの2人(人夫と看護婦)は塗布後10分で石鹸洗浄した後昇汞水で消毒したので発症しなかった。以上から発症条件と予防が確認された。華岡青洲の妻が思い起こされる美談報道と、単なる自分の功名心だとする非難とがあった。
 県衛生課の石川技師と友人の軍医芳賀は、野兎の臓器と夫人のリンパ節から菌の分離に成功し、グラム陰性の球菌あるいは双球菌を大原芳賀球菌と名付けた。
患者血清をアメリカの衛生研究所へ送り、ツラレミア(野兎病、1911年米国加州ツラレ郡で発生)に対する血清凝集反応を依頼、陽性を示した事から、米のツラレミアと大原発見の野兎病が同じ病気である事が証明された。米の技官の助言を得て、生きた雌鶏の腹を切開し、未成熟卵を無菌的に取りだし、卵黄食塩水培地を作って菌の純粋培養に成功した。
 細菌学者の藤野は「大原の業績は一つの新しい病気を発見し、その病原菌を確認できた事である。この病気と同じものがアメリカでツラレミアと呼ばれていることを明らかにした」と述べている。現在も附属大原研究所内で、人畜共通感染症研究が行なわれている。
本間玄調

本間玄調


 野兎病に関する最初の文献は、華岡青洲の弟子で水戸藩侍医本間玄調(棗軒)(1804‐1872、済生みと25号参照)が1837年に「家兎中毒」、1852年に「中兎毒」として発表したものであった。流行病、発病経過、潜伏期、化膿自壊、穿刺排膿、予後良好の記載は極めて正確であった。「兎肉を食する者は必ず毒に病むもの多し」が「兎の皮を剥ぎ、若しくは料理したる者は・・・」と記載しておれば学術論文として完全であった。
本間幻調

本間幻調


食中毒ではなかったのである。極めて残念。大原八郎の四男夫人が本間玄調の曽孫、という不思議な血縁関係に驚いた。福島と水戸が結び付いたのである。本間家代々の墓標は水戸市の二十三夜尊桂岸寺(保和苑)にある。
 野兎病菌の細菌兵器研究は、日本が中国で1932年から、米露が1950年頃から行なわれてきた。テロリストによる生物兵器としての危険性がある。
 平澤 興著「医学の足跡」と、中島健蔵(八郎の義父)著「日本の野兎病研究初期」(日本細菌学外史)を参考にした。

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2.6、大山北壁の崩壊


 小学4年(1959)の時、従兄弟に勧められ、記念切手を集めるようになった。郵便局に行列が出来た。東京オリンピックの記念切手は6次まで発売され、親が、子が、郵便局に並び小さな問題になった。日本地図を広げ、カタログの国立公園シリーズをめくり山の風景を眺めていた。大山の南東に蒜山が載っていたが、ダイセン・ヒルゼンと読めなかった。大山を忘れた。
 1973年社会人になり、深田久弥の「日本百名山」を読み、出雲風土記の「国引き」の神話に出会い、大山への気持ちが沸き、登る機会が巡ってきた。
 1981年5月下旬、宇部市へ出張した。鈍行で下関市に出て、駅前にある昔ながらの銭湯に浸かり身を清めた。大山は富士、木曽御岳、加賀白山と同じ信仰の山である。寂しい夜行列車で早朝米子駅に着いた。バスで大山寺へ。雨がしとしと降り大山寺部落を見学した。みやげ屋の民宿に泊ったが、客は一人であった。翌朝、山頂はガスで見えず、夏山登山コースを登ることとなった。頂上(1711m)に到着した途端に晴れ、眺めがよかった。北壁の崩壊が激しく、鋭く切れ落ち、「剣が峰へ縦走しないように」と標識が立ててあった。2年後、職場のワンゲル部員は、このナイフリッジを震えながら渡ったと自慢していたが、バランス感覚とくそ度胸を持っていたのだろう。無謀な登山といえる。下山すると、大山神社の例大祭で賑わっていた。境内と社殿で山伏姿に扮した若者が、太鼓の乱れ打ちをしていた。迫力満点で、ドンドンと心臓に響いた。多数の露天が出て、古着や農具を売っていた。焼印する金属製の道具を売っていたが、用途は分からなかった。金剛棒の焼き印用か。20年前は古き良きものがあった。
 1989年6月中旬、岡山市へ出張した。汽車とバスを乗り継ぎ山を超え蒜山高原へ。国民休暇村を出発し、蒜山登山口は牛の排泄物で汚かった。槍が峰の手前で雨が降り下山した。途端に天気が良くなり、休暇村から蒜山三山の頂が見え隠れし、悔やまれた。南から見た大山は、北と比べ女性的であった。牛が放牧され、搾りたての蒜山(ジャージー)牛乳を飲んだ。バスと汽車を乗り継いで大山寺へ。国民宿舎「豪円会館」に泊った。部屋の南窓を開けたら、大山の北壁は夕日に染まり、荘厳さを感じた。薄緑色の豪円スキー場ゲレンデの上にどっしりと座っている大山、茶褐色の崩壊激しい北壁が、痛々しい。夕食はジンギスカンで、お酒は程々にして寝た。今回も一人であった。翌朝窓を開けたら、北壁が朝日に輝いていた。すがすがしかった。
大山

大山


大山2


大山2


登山口に、石を持って大山へ登ろうという掲示板があった。頂上は木道で整備され、一変していた。崩壊がさらに強まった。山に人が入ると、山は崩壊するのだろう。沢山の石が木枠の中にあった。登山者が運んだものである。北に宍道湖、島根半島、日本海、隠岐島が、南に蒜山三山が重なり、遠くに四国の山々まで見えた。東側の縦走路は北側が削り取られ、縦走禁止の案内板があった。山の老化現象は確実に進んでいた。地下足袋の底が薄く岩が当たり足が痛かった。米子駅前発の夜行バス(当時キャメル号が運行。現在はない)に乗り、10時間以上かかって品川へ、総武線で稲毛へ。日常勤務はきつかった。
 いつの日にか、大山北面のゲレンデで、スキーをしたい。

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2.7、アサヨ峰の教え


 北沢峠の小屋で、宿泊を拒否された登山者が「もう南アルプスに来ない」と憤っていた。予約をしておいて良かった。宿泊拒否は山小屋で聞いたことがないが確かにあった。予約をしない登山者が悪いのか、山小屋の体質が問題なのか。宿泊拒否で事故が起きないのか。夕食はおかわりなしのカレーだった。
 仙丈岳の頂上は、ガスで視野がきかず、カールの底に仙丈小屋が眺められた。石仏を拝んで下山。高山植物の仙丈と期待していたが、花の盛りは梅雨明けのようだ。宿泊の予約無しで仙水小屋に宿泊できた。
小屋のご夫婦は、ユニークな方で、山の生活に、自然の力を活用し、努力と工夫を行っている。水力利用のステレオ(CDプレーヤーにボーズのスピーカー)、水洗トイレ、太陽光利用の反射熱湯沸器(写真)、他にも工夫があるようだ。
アサヨ峰

アサヨ峰

やかん


やかんは沸騰したのか、沸騰したやかんをどう運んだのか分からない。酒焼けした小屋主はクラッシック好き、「四季」「フルート協奏曲」「フルートとハープのための協奏曲」を流してくれた。音楽の中で美味しい夕食をとり、小屋が明るくなり、全員の表情が生き生きとした。
 翌朝、「今日は快晴」との合図で、元気よく起床、気合いを入れて出発した。仙水峠で、魔迦支天の右よりいずる御来光を、手を合わせて拝んだ。家族の健康を切に願い、仕事が上手くいくようにと。起きたばかりの身体はまだ眠っていたので、アサヨ峰までの登りはきつかった。後ろを振り返ると駒津峰への登りも急で、甲斐駒を目指す登山者の苦しい息づかいが聞こえてくるようだった。
東に早川尾根がどこまでも連なり、鳳皇三山の地蔵岳のオベリスクが、力強く天にそびえ、奥秩父金峰山の五丈岩を思い出した。
アサヨ峰から、北岳のバットレスが手に取るようで、まさにガリバーが座る「座椅子」だ。山肌の緑が美しい。白峰三山、魔利支天と甲斐駒の岩の固まり、仙丈のカール、美しい二峰をもつ塩見岳、南ア南部主峰赤石岳、東西に長い荒川三山、独立峰富士山が横たわり、360度の映像である。アサヨ峰は穴場。有名な山の間にある尾根は、登山者が少なく、名が知られていない山に登って、はじめて名山を望むことができるのである。
アサヨ峰より北岳

アサヨ峰より北岳


コーヒーを飲んでいると、「登山前に1日3000mの水泳で鍛え、秋から春シーズンにハーフを」という同世代女性の話し声が聞こえ、心の中で「すげー」と一叫び、聞き耳を立てた。「マラソン」「ストレッチ」「スクワット」の言葉が耳に残った。
早川尾根小屋への下りは、足にずっしりと堪えた。足がガクガクで、手を使って下りた。体力の限界で、足と腕がパンパン張ってきた。早川尾根小屋に到着。一般登山者は地蔵岳まで歩くが、山愛好家はここまで。午後の雷が怖かった。頭からタオルを垂らして強い直射日光をさけ、冷たいビールを飲んだ。実に美味い。ラーメンとパンを食べる。山の中での食事はおいしい。最盛期なのに宿泊者8名。小屋の運営が出来るのだろうか。
アサヨ峰

鳳凰三山と富士


翌日は土砂降り。地蔵岳への分岐点で、街から持ってきたすべてのストレスを思い切り山に吐き出し、広河原へ。広河原国民宿舎で風呂に入り、精神と肉体をリフレッシュし、中央高速バスに乗り込んだ。終点西新宿で先輩と酒を飲んだ。アルコールが胃粘膜に吸収された。
 「酒がきれず停年まで大酒を飲んだ人は退職後老化が早く、みるも無惨な姿になる」と、母から「忠告」を受けた。アサヨ峰頂上で聞いた水泳とマラソンの話が忘れられない。心臓外科医から、膝と腰のためのトレーニングを教えてもらい、毎朝晩スクワットと、朝のテレビ体操を始めた。若い女性トレーナーとテレビを通して、体操を続けているが、足は2拍子、手は3拍子のリズム体操は出来ない。老化の進みを少し遅らせているようだ。ジョッギングを始め、10kmマラソン大会に出場し、タイムは、58分から49分台へと飛躍的に伸び、体重は1年で8kg落ちた。努力すれば報われる。スクワット、ストレッチ、膝の冷却と湿布の塗布を忘れず、トレーニングを続けている。がんばれ追っかけ中年。

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2.8、タクシー利用登山


 1985年6月上旬、鹿児島へ出張し、南九州の百名山を歩いた。腹痛と下痢、痔出血が加わり、苦しい山行きとなった。豚骨、薩摩揚と焼酎が合わなかったようだ。
 指宿国民休暇村に泊まり、9日5時起床、タクシーと汽車で無人の開門駅に着く。コインロッカーと売店がない。バス停わきの駄菓子屋に荷物を預ける。朝食をとらず、弁当を持たず、7時10分出発。村内放送が聞こえる長閑な所だ。一時間で五合目に着く。おとりの鳥を持った密猟風のおじさんに出会う。右足の親指が地下足袋に合わず痛い。
9合目からは潅木で展望が開けた。9時10分ちょうど2時間で開聞岳頂上に到着(924m)。快晴で眺望良好。どこまでも続く太平洋、虫垂の形の長崎鼻、巨大鰻で有名な池田湖が真下に見える。山が海からせり上がる良い山である。沖縄、台湾、霧島連峰は見れなかったが、海と空は真っ青。おやしろで手を合わせ、9時半下山開始。
約20人のハイカーと出会う。日曜日で天気がよいのにひとが少ない。花が終ったからか。11時15分着。腹の具合いが悪いのに冷たいビールと焼魚定食を食べる。以後症状悪化。バス・汽車・バスを乗り継いで、霧島の丸尾温泉に向かった。せわしい日程である。
 10日5時半起床。山は雲で覆われている。依然として腹部症状は持続し、朝食の代わりに弁当を作って貰う。タクシーでえびの高原登山口まで入る。ミヤマキリシマが少し残っていた。よくみるツツジより、花も葉も木も小振りで、非常に可愛く見飽きない。花の色はピンク、紅、紫で、それぞれに濃淡がある。5月20日前後の満開時は、全山が変貌するのだろう。見頃より20日も過ぎてしまい面影なし。可憐な花を根こそぎ盗掘する人々に、地元では頭を痛めている。6時45分登山開始。一時間で韓国岳頂上到着。天気は曇りだがそれなりに視界があった。腹は依然悪い。正露丸を飲んだが、腹がしくしく。先行き不安。8時55分獅子戸岳着。なんとサイクリングを担いで登ってきた若者が休んでいた。縦走後高千穂峰に登るらしい。
姿のよい高千穂峰が前にそびえている。9時半新燃岳着。噴煙を上げていた。急に腸の具合が狂い、草むらで<雉うち>をする。当りを見回しながら。この大事な時に、突然一人の山を愛する人を発見。冷汗を感じる。急いで後始末をし、急ぎ足で現場から離れた。10時中岳着。ここのミヤマキリシマも花が散っていた。残念。10時45分高千穂河原に下山。売店で飲んだ暑い味噌汁は実に旨かった。朝予約したタクシーで霧島神宮を回り、宿屋「清流荘」へたちより、鹿児島空港へ向かった。体の具合いが悪いので、羽田まで迎えを頼む電話をした。タクシーと車は便利である。

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2.9、北ア北部のんびり山旅(1)1984年


 ロス五輪の開会式当日、立山室堂を出発、五色ガ原、越中沢、薬師、黒部五郎、鷲羽、水晶、野口五郎へ一人のんびりと山を歩いてきた。
7月29日6時30分扇沢駅からトロリーバスに乗り、6時50分黒部ダム着。快晴。高度経済成長を思わせる豪快なダムで、水量が凄まじい。黒部平までケーブル。紅葉の写真をよくみる。大観峰までロープウエイ、室堂までトロリーバス、8時30分室堂に着いた。黒部アルペンルートは立山三山(真砂岳、大汝山、雄山)を貫いている。環境庁がよく許可したものである。片道7300円と高い。黒部湖西岸を平ノ小屋、刈安峠から五色が原へ入ると安上がりだった。浄土山、竜王岳、鬼岳、獅子岳、ザラ峠を経て、12時55分五色山荘着。ラジオから開会式の実況が聞こえた。小型のロケットを背負い、空中を遊泳しながら実況をしていた。テニス用半ズボンで歩いたので、日焼けし、熱があって痛い。オロナイン軟膏を塗ったら、傷みが少なくなった。山荘自慢の湯船に入れず、水で冷やし出た。夕食後スライドで高山植物の説明があった。
 30日6時10分山荘発。鳶山(2616m)から越中沢岳(2591m)で、後立山連峰と剣立山連峰が重なり、岩と沢の雪が縦じまを創っている。五色が原は少し右に傾斜した大きな大地で、緑が映えていた。越中沢岳への上りから、新しい血痕が登山路の岩に付着し気持ち悪かった。医学部学生のパーテーが、左手首から出血している人を手当していた。タオルは真っ赤だった。10時58分スゴ乗越小屋で負傷者と話をした。学生時代ワンゲル部だった会社員は、冬の尾瀬で、至仏から滑り落ちた時は怖かったと話していた。傷口は深く広い。夜中に出血しシーツをよごしたと、小屋主に謝っていた。
 31日5時10分小屋発。間山(2585m)で薬師の大きさに圧倒される。薬師の尾根からまっすぐに落ち、高天原峠で再びせりあがり、太郎兵衛平から雲の平への登山ルートがある。8時40分薬師岳(2926m)着。広い大地の雲の平に、ずんぐりした祖父岳が緑鮮やかに見える。奥に水晶、ワリモ、鷲羽、三俣蓮華、黒部五郎が半円状に並び、鷲羽と三俣蓮華の間に、槍の穂先が突き立っている。飽きない。9時30分薬師岳を出発。薬師岳山荘の前を通り、ケルンが林立している薬師平と太郎兵衛平をのんびりと歩き、11時30分太郎平小屋着。さっきの怪我人と再び一緒になり、薬箱を借りて傷口を消毒したが、オキシフルの有効期限が切れていたようだった。明日下山して富山市の病院で手当をして貰うとの事。黒部五郎岳を往復したいようだった。登山は軽量に限ること、袋から中身を抜き取ること、荷物をコンパクトにする工夫を教えて貰った。軽量化のためカメラを持ってこない。下山後写真10枚送ったら礼状がきた。
 8月1日5時18分小屋出発。北ノ俣岳(2661m)への登りはきつい。赤木岳(2622m)を経、8時33分中俣乗越に着く。薬師からの眺めと左右逆である。薬師岳、薬師沢、雲の平が、V字を示している。雲の平と祖父岳が緑色、水晶と鷲羽が黒光りしている。9時45分黒部五郎岳着。見渡し抜群。雲の平と槍がさらに近づいた。
黒部五郎岳

黒部五郎岳


黒部五郎岳2840mの登頂記念>のプレートを持って、記念写真を撮ってもらい、黒部カールに下り、黒部源流で水遊びに興じた。残雪の一滴が、黒部ダムの大曝布になり、自然の力に感心させられる。三角形の黒部五郎小舎がおもちゃ箱に見える。11時50分小舎着。早速ビールを飲む。黒部乗越は草原が広がり居心地がよい。多くの釣り師が入っているようで、夕食にかわいい「イワナ」が出た。
 2日今日も快晴、5日連続の好天。急な登りから始まる。山小屋は・・・・乗越あるいは・・・・平に建てられ、山頂の小屋は少ない。風雨を避け飲み水の確保からであろう。7時3分三俣蓮華岳(2842m)到着。眺めは最高。ぽっかりとえぐられた黒部五郎カールがかわいい。北や東からの黒部五郎岳と感じが違う。重厚な薬師がじっと座っている。高天ケ原を中心に、左周りに歩いているので、同じ山でも形、表情に変化があり飽きない。7時40分三俣山荘着。見上げるばかりの大きな鷲羽岳に挑戦。道がはっきりせず、足場は不安定、斜度が急で、荷物をおけず休憩場所がなく、休まず夢中で登った。8時55分やっと鷲羽岳(2924m)に到着。紺碧の鷲羽池は火口湖。北鎌、槍、穂高の壁は、茶褐色で脆そう。カメラマンが三脚を立てファインダーを真剣に覗いている。雲の位置や下からのガスをイメージ、シャッターチャンスを狙っているようだ。
水晶岳 水晶岳


名残惜しいが、9時10分ワリモ岳に向かう。気持ちよい尾根歩きである。10時35分水晶小屋着。水晶岳へ。左は絶壁。足、手、気持ち、目が緊張の連続。恐怖の時は無口になる。水晶があるのだろうか。昔水晶を取りに来たのだろうか。11時25分水晶岳(2978m)に到着。12時水晶小屋着。小屋は数十メートル先の残雪を利用している。運搬が大変だろう。2時過ぎから激しい雷雨、小屋に駆け込む登山客が多くなった。今日は超満員。
水晶岳

水晶岳


ザックを外に出しビニールを掛けた。一畳に三人。先ず右側が寝て、左側が右側の足の間に入る。かけ声でいっせいに行われた。私の顔の両側に汚い靴下がある。今日で5日目の靴下である。顔、足、顔の順に側臥居で寝る。寝返りは出来ない。トイレに立ったら寝床の保証はない。トイレは外で雨の中を行く気にならない。
暖かくなると匂いがすごい。外は大雨。消灯後、小屋主がライトを持って、人を捜しに行った。こんな時間まで行動している人がいる。外は真っ暗。小屋主が登山客に文句を激しく言っている。厨房を兼ねる小屋主の部屋で寝るらしい。
 3日小雨。山奥に入る人、下山する人、出発を控えている。6時53分水晶小屋出発。7時50分真砂岳着。ザックを置き、8時20分野口五郎岳(2924m)着。頂上はただ広いだけ。前に薬師があるのだが、まわりは見えず、しとしと小雨が降っている。引き返して竹村新道を下る。12時25分湯俣温泉に着き、清嵐荘で昼食をとる。下界は明るかった。13時15分出発。とぼとぼと歩いき、いくら歩いても同じ風景。高瀬ダムで出来た湖の右岸を歩き、やっと16時10分高瀬ダムに着く。足が痛く運動靴に履き変え、車道を力なく歩き、真っ暗な山の神トンネルに出た。辺りは暗く水の落ちる音が恐かった。10時間以上も歩いている。限界。ふらふら。17時25分七倉山荘に着いた。野口五郎岳から烏帽子小屋を経、ブナ立て尾根を下った方がよかった。
 4日晴れ。信濃大町に出て若一王子神社を見、松本で後輩のもてなしを受けた。以上1車中泊、6山小屋泊、1知人宅泊(8泊9日)のぜいたくな84山行きは終わった。大満足。

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2.10、北ア北部のんびり山旅(2)1985年


 弟と二人で、富山の有峰口折立から、太郎兵衛平、黒部五郎、黒部源流、鷲羽、水晶、岩苔、高天原、雲の平、双六、鏡平から新穂高温泉へ下山、白骨温泉で疲れを癒した。天気がよく、登山者が少なく静かな山だった。
 7月28日、夜汽車で富山駅へ、バス(2500円)で、8時13分折立。9時46分三角点、11時38分餅を焼いて昼食とする。12時40分太郎平小屋着。一泊二食付き4500円。
 29日、インスタント雑炊を腹に入れ、4時55分出発。快晴。6時37分上ノ岳。9時55分黒部五郎岳。こじんまりした山で眺めもよい。10時25分肩発。ジグザグ道を下りる。黒部源流の黒部五郎カールである。ククレカレーとうるち米を食べ、評判通りのまずさで、腹の調子が悪い。12時50分黒部五郎小舎。13時5分出発。昨年は小舎泊まりだったが、今年は先を目指し、最後のガレバを通って、やっと三俣山荘に。ベンチに座りこみ、冷たいビールを一気に飲む。旨さは何物にも代えがたい。山頂で飲むビールの旨さが忘れらず、重たいビールを担いで登るひとが沢山いる。小屋は土地を国から借りている。小屋主は伊藤新道を切り開き、借地税の値上げに反対し新聞を賑わしている。
 30日、4時20分起床、5時40分出発。朝一番の急登は堪える。傾斜がきつく、足場がガレて、手を掴むところが無く、不安定の連続である。7時鷲羽岳。北鎌、槍、穂高の切り立った黒い冷い壁、深青色の水をたたえる小さな鷲羽池、最高の写真構図である。2年続けて好天気。7時45分別れを惜しんで出発。8時23分ワリモ岳。右に北鎌、野口五郎、烏帽子、正面に水晶、赤牛、左には雲の平、薬師、黒部五郎を見る。奥に鷲羽と槍穂高連峰がある。
9時水晶と岩苔乗越、雲の平への分岐点に着く。水晶小屋手前の登山路両側に、ハクサンイチゲとシナノキンバエが盛んに咲いていた。水晶岳へ。左は垂直の崖、右は切り立った岸壁で神経が疲れる。荷物を背負っていたら一苦労であろう。10時20分水晶岳。南北にふたつのピークがあり、北を通って、赤牛への読売新道に続く。双眼鏡をさげ保護蝶を監視する若者に出会った。11時10分水晶小屋で、薄いハム入りのラーメン(500円)を食べ、12時出発。32分分岐点、14時30分水晶池(2350m)。やけくそで歩き、15時25分高天原山荘着。
ベンチで小休止、待望の露天風呂(森村誠一の小説?)へ。結構な道のり(15分)。川をはさみ、左に女子用の囲いのある風呂、右が男子用。缶ビールを飲んでいるヒト、それを見ながら咽を鳴らしているヒト。帰り道で汗をかいた。
高天ケ原・ワタスゲ


ワタスゲ


 31日、4時10分起床、餅と紅茶で朝食、5時35分出発。一帯はワタスゲの群生地、ニッコウキスゲが混じっていた。6時25分高天原峠。雲の平までの登りは、学生時代の合宿以上のアルバイト。泥だらけの木の根っこにしがみつきながら、喘ぎ喘ぎ登った。早朝の急登は痔に悪い。登りきた所にシャーベット状の池塘が点在していた。
白い雪、シャーベット状の池塘、冷たい水、丈の低い緑の木々が美しい。奥に薬師、黒部五郎が連なっている。8時25分<生ビールとステーキ>で有名な雲の平山荘着。生ビールを美味しそうに飲み、おかわりを注文しているのをただ見ていた。唾を飲んだ。雲の平にテントを張り、軽装で周囲の山々を登る方が縦走より楽しいと思った。
11時38分三俣山荘着、ラーメンと味噌汁で昼食、12時32分出発。双六小屋までの登山道は良い。尾根から見える鷲羽が雄雄しく好きな一こまである。大きな羽根を力強く、思いっきり両側に広げ、まさしく鷲羽岳である。14時55分双六小屋。
 8月1日。疲れがたまり、裏銀座を通って槍へ行く計画を断念、双六池から鏡平に。ここの尾根歩きは北アルプス一級の展望を誇る。朝、槍穂高連峰の西斜面は日陰になり、細かい山肌は解らず、不気味だった。鳥も近づかない<滝谷>と言われている。大きなU字に切れている槍穂高連峰のシルエットは壮観。午後、西日を受けた槍穂高連峰もすばらしいでだろう。7時53分標高2300mの鏡平小屋。鏡平池に映った槍穂高連峰。水面に映った槍穂高連峰は色が出たが、肝心の槍穂高連峰が薄くなった。8時8分出発。谷に向かって一気に下りる。10時30分ワサビ平小屋、冷たい冷麦を食べる。12時5分新穂高、ビールで乾杯。13時バスで平湯へ。標高1790mの安房峠を越え、中の湯をへ、白骨温泉14時45分着。新平湯と平湯の間に「円空庵」という国民宿舎があった。千葉にいたとき円空学会会員だった。一泊9000円の旅館「まえだ」に泊まる。
 8月2日9時5分発のバスに乗る。
<84・85年名山総括>

 1.薬師岳(2926m) 何処からでも目立つ山塊。高天原から雲の平に登りきった奥の平から見る薬師がよかった。雲の平はゴツゴツした岩と、シャーベット状の雪田からなり、奥の平の奥にどっしりとした薬師が座っている。
 2.黒部五郎岳(2840m) 想像より小ぶりのかわいい山。北側の薬師や北の俣岳から見た時と、東側の雲の平や鷲羽からでは、山姿は異なっている。前者は変哲ないが、後者はカールが見事。カールの外殻の岩が、風化し不気味である。日本庭園からの黒部五郎岳がよかった。
 3.水晶岳(黒岳2978m) 雄々しい山。山肌がギリシャ彫刻を思わせる。水晶池からの眺めは、水晶から絶壁を見てきたばかりで恐さが増す。600mの壁がせり立つ絶壁。岩壁を登っているヒトはいない。広角レンズでも池と山頂は同時に入らない。
 4.鷲羽岳(2924m) 北アルプス北部の一番真中に座る山の主。双六へ続く山路からの眺めが最高。大鷲が胸をいっぱいに張り出し、大きく羽根を広げ、飛翔しようとしている山姿に圧倒される。ハイカーが負け犬に、鷲の獲物に見える。
鷲羽岳

鷲羽岳


 5.槍、穂高連峰(槍3180m、奥穂3190m) 双六小屋から鏡平へ下る小池新道からの眺めがよい。尖った槍の穂先とノコギリ状に切り立った穂高。縦走は、ハイカーでは無理。U字の大キレットと、落石が多い<滝谷>は人を寄せ付けない。魔の山。
槍・穂高連峰

槍・穂高連峰


  6.その他 西の白山は、雲海の上に頂上が覗いていた。ハクサン・・・・という名の花が多いので登ってみたい。北西に笠、乗鞍、御岳が並んでいる。85年乗鞍で、老人達の計画性のない山行きに批判がなされた。
笠岳傘

笠岳


3.1、長英と蔵六


 

「長英逃亡」「花神」「鬼謀の人」を読んだ。高野長英(1804-50)と村田蔵六(1824-69)は共通点が多かった。医者で、優れた師をもち、宇和島藩主伊達宗城の知遇を得た。語学の天才、志にぶれが無く、西洋の兵書を翻訳し、軍事的技術者として活躍した。志を遂げ40半ばで殺された。ふたりは20歳違いで、互いに会ったことがない。花神は花咲爺さん、鬼謀はすばらしいはかりごとのことである。
 長英は岩手県水沢藩士の3男として生まれた。1825年長崎へ留学。シーボルト(1796-1866)の高弟となり、湊長安・岡泰安・高良斎・岡研介・二宮敬作・渡辺崋山と勉強した。洞察力と判断力が優れ、鎖国を非難した「夢物語」を書いた。シーボルト事件(1828年)は逃げ延び、鳥居忠耀に捕まった(1839年、蛮社の獄)。永牢の刑で小伝馬町へ入牢、牢名主となり260両の上納金を得た。牢内は不衛生で獄死するヒトが多かった。6年目、死の恐怖と翻訳への願望から放火を依頼。火事による3日間の切放しがあり脱獄した。41才だった。
放火を請け負った栄蔵は2年後火あぶりの刑をうけた。6年間の逃亡生活が始まり、入牢で得たパイプから、やくざの親分に助けを求めた。江戸から浦和・上州中之条・越後直江津・新潟から阿賀野川をのぼり、水沢で老母に会った。仙台・福島・米沢・江戸・京都・大阪・宇和島をへて江戸へ舞い戻った。宇和島では、西洋兵書の翻訳に没頭した。顔を薬で焼き、沢三伯と名を変え江戸に潜伏。仲間の元囚人に金を貸したところで斬殺された。元囚人は同心の手下となって長英を探していたのである。逃走を助けた蘭学者、鳴滝塾の仲間、長英の妻子が処罰を受けた。記念碑が北青山3丁目の善光寺にある(写真1)。
長英記念碑

(写真1)
逃走を助けた蘭学者、鳴滝塾の仲間、長英の妻子が処罰を受けた。
記念碑が北青山3丁目の善光寺にある
 孫文(1866-1925)は高野長英を深く尊敬し、日本亡命中に高野長雄と名乗った。ふたりは医師で、国の近代化に尽くし、権力の弾圧に屈せず、長い間逃亡生活を送った。福島市の薬や・油屋藤兵衛は長英の逃亡を支え、スケールが大きい人物として描かれている。私は薬局の前を自転車通勤していた。約35年も前のことである。現在油屋薬局はない。
 著者吉村昭は連載中、岡っ引に追いかけられている夢をみ、前から警察官が歩いてくると横道に入ろうとしたと「史実を追う旅」の中で述懐している。同著「破獄」は味噌汁で鉄鎖を切って、網走刑務所を脱獄する実話で、描写と話の展開が面白い。
 一方、村田蔵六は長州藩の生まれ。余計な事は一切せず、徹底した合理主義者で、過去を追想しなかった。朴念仁(無口で無愛想な人)、倣岸(威張り返って相手を馬鹿にするさま)と言われ、火吹達磨(火を起こす道具、銅製でダルマに似ていて中が空洞である)と馬鹿にされた。唯一の愉しみは、黙然と酒を飲むことだった。物干台に上り、星空の下、豆腐をつまみに、2本の酒を飲んだ。酒徳利をまたぐらに抱き込みながら。
 緒方洪庵(1810-63)の適塾に入塾。洪庵は「医戒」の中で、「医者とは人の病苦をすくうだけのために存在し、自分のためには存在しない」と教えている。医学が適塾式からポンペ式へと変わり、長崎へ留学し、宇和島へ渡った。仕事は、兵書翻訳業、西洋式砲台建設、蒸気船をつくること、シーボルトの娘イネに蘭語と医学を教えることだった。弟子に「まずやることなのだ」「八分どうりで良いのだ」「頭に七分のものを入れてから講義を聞け」と諭した。
 時代は激動し、学問は蘭語から英語重視へと変わった。長州は攘夷を唱えながらも、秘密裏に井上と伊藤を英国へ留学させた(1863)。蔵六と福沢諭吉は適塾の二大高弟といわれたが、仲が悪かった。蔵六は福沢に英語の勉強を誘われたが断わり、一人でヘボンから英語を学んだ。二人は語学の天才だった。
 著者司馬遼太郎は「革命に思想家、戦略家、技術者が必要」と説いている。思想家の代表は吉田松陰で必ず非業の死をとげる。戦略家は高杉晋作や西郷隆盛で、これも天寿をまっとうしない。最後に登場するのは、科学・法制・軍事の技術者である。蔵六は軍事の技術者で革命の仕上げ人と評価されている。
法制の技術者は江藤新平である。  1859年10月小塚原回向院で、桂と蔵六の運命的な出会いがあった。以後時代が回天するのである。桂に請われ長州藩へ。長州は蛤御門の変(1864)で敗北し、桂は長い亡命生活を送った。京都で乞食や按摩をやりながら、但馬城崎へ逃げた。甚助・直蔵兄弟と出会い、有名な義侠心的助けを受けた。逃亡中桂は多くの有能な人材の中から蔵六を選び、人間として認め遇し頼ったのである。蔵六以外に長州を救うものはいないと。蔵六は軍隊を歩兵、砲兵、奇兵に分け、その総司令官になった。外国から元込め銃1万丁を買い、鍋島藩からアームストロング砲を借り、洋式装備の百姓兵を訓練した。
上野山の戦い(彰義隊)では、1ヶ所を開けて戦った。敵に退路をあたえたのである。  軍事に素人の蔵六が我流に兵書を翻訳し、想像力をかきたて、自信と合理主義で時代を回天させ、明治維新を完成させたのである。第2次長州戦争の指揮官となってから3年間、技術屋の仕事をしたことになる。機械のような正確さで戊辰戦争を1年で片付けた。近代兵制の生みの親となり、最後は軍神的存在であった。
 蔵六は優れた直感を持っていた。「いずれ九州から足利尊氏のごときが興って中央に攻め込んでくる」と、10年前に薩摩の反乱を予言していた。戊辰戦争のうちから、東京でなく九州に近い大坂に、陸海軍練兵所、兵学寮、鎮台、軍事工場と火薬庫を準備していた。薩摩藩士に大腿部を切られ、足を切断したが、敗血症で2ヶ月後に死んだ。遺言は「大砲をたくさんつくっておけ」。約2ヶ月間イネの看護を受けた。妻琴子は来なかった。「一生の間によき話し相手の何人かでも保たれればそれほど幸福なことはない」といい、それがイネであったようだ。銅像が靖国神社に建っている(写真2)。
蔵六

(写真2)
蔵六の銅像が靖国神社に建っている

 司馬は「蔵六は歴史がかれを必要とした時忽然とあらわれ、幕末に貯蔵された革命のエネルギーを軍事的手段で全国に普及する仕事をした。使命が終わると大急ぎで去った。全国津々浦々の枯木に花を咲かせてまわる役目をした」と述べ、「蔵六は優れた眼識と胆略をそなえ、軍事的才能は義経、滝川一益、秀吉、光秀と同等」と付け加えている。

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3.2,近代医学の名コンビ


 刑場が日本橋を境に北と南にあった。北は小塚原(骨ヶ原)で、現在常磐線と日比谷線に分断された。回向院別院の延命寺に、首切り地蔵(写真1)がある。
首切地蔵

(写真1)
回向院別院の延命寺の首切り地蔵

遺体は小塚原回向院に埋葬された。吉田松陰、橋本左内、水戸浪士、鼠小僧、高橋お伝の墓がある。松陰は1859年10月27日、安政の大獄で斬首され、29日桂、伊藤、井上が恩師の遺体を引き取り、回向院に埋葬した。同日、同場所で、蔵六は無宿者を解剖し医者に教授した。桂と蔵六の有名な出会いがあった。
南は鈴ヶ森で、京浜急行大森海岸駅北に碑がある。八百屋お七、幡随院長兵衛、国定忠治、丸橋忠弥が処刑された。江戸時代約250年間、約20万人以上が処刑され、1日2人が殺されたのである。幕府は容易に罪人を殺害したが、解剖は許可されなかった。
 ドイツ人クルムス(1689−1745)は、解剖図譜「ターヘル・アナトミア」を著し、オランダ人ディクテンが1734年に蘭訳した。1771年3月4日、前野良沢(1723−1803)と杉田玄白(1733-1817)は、それぞれが同じクルムス解剖書を手に、小塚原で観臓した。90才の老人が50才女性を腑分けした。腑分けとは罪人を解剖することで、腑分け人足(非人)がいた。二人は解剖書の正確さに驚嘆し翻訳を誓った。回向院に観臓記念碑がある(写真2)。
観臓記念碑


(写真2)
回向院に観臓記念碑がある

 良沢は九州中津藩士、築地の中屋敷に住んでいた。47歳で、薩摩芋博士・青木昆陽に蘭学を師事、彼が作った蘭和単語集を写し覚えた。単語数はわずか721語。単語はABCの順でなくただ羅列し、使い勝手が悪かった。長崎へ留学し、長崎通司に師事したが、彼らは会話はできても蘭語を訳す能力は乏しかった。
成果は、高価なクルムス解剖書とマリン仏蘭辞書を入手できたことだった。辞書を見た瞬間、辞書を有効に活用できないと思い、絶望感と恐怖感におしつぶされた。藩主に申し開きができないと考えたのである。蘭語に蘭語で詳しい注釈がついていた。仏語を無視し蘭蘭辞書として利用することを気づいた。たとえば蘭語「日暮れ」と辞書を引くと、蘭語で「一日の終わりの部分なり」と注釈があった。
 毎月6回から7回築地の良沢家で、良沢を師と仰いで訳読会を開いた。良沢49才、玄白39、中川淳庵33、桂川甫周21。良沢改良単語集と仏蘭辞書を開き、人体図から始めた。文法、定冠詞、助詞、形容詞、副詞、関係代名詞の存在、その解釈に苦労した。
鼻や口といった外表所見からはじめ、鼻や口の絵符号と蘭語の本文を比較し、ひとつひとつ単語を理解していった。神経、軟骨、十二指腸、門脈という用語を創った。3年半後の1774年に、草稿11回の末、訳本「解体新書」を出版した。
その後、玄白の弟子大槻玄沢が、1826年「重訂解体新書」を出版した。有名なハルマ蘭和辞書が出版されたのは1796年で、64000語を収蔵、30部発売された。以後、師に師事せずに蘭語の本が読めるようになったのである。聖路加病院ロータリーに、慶應義塾大学発祥の記念碑(福沢諭吉も中津藩士、写真3左)と並んで、蘭学発祥記念碑「蘭学の泉はここに」が建っている(写真3右)。
蘭学発祥の地

(写真3)
蘭学発祥記念碑「蘭学の泉はここに」が建っている

 良沢は高い理想を持ち、眼光鋭く、語学の天才、学究肌で、困難なことに発奮する人であった。反面、頑固、偏狭、独善的、社交性の欠如、孤独の人だった。完全主義者で完璧な訳書を目指した。世間に背を向け、反骨精神が強く、著名になることを拒否、解体新書の著者名を辞退した。藩主は心が広く、良沢に翻訳業に専念させ、本を買って与えた。藩主は良沢を「オランダ人の化け物」といい、良沢も「蘭化」と名乗った。ラテン語とフランス語の翻訳も行ったが、出版をしなかった。門人を育成する考えはなかった。良沢の楽しみは茶碗一杯の焼酎だった。無名の老人は一生貧しかった。81歳で娘の嫁ぎ先に引き取られ、寂しく死んだ。激しく、厳しく、寂しい人生であった。墓は丸ノ内線新高円寺駅から南の慶安寺にある(写真4)。
杉田玄白の墓

(写真4)
杉田玄白の墓は丸ノ内線新高円寺駅から南の慶安寺にある

 玄白は若狭小浜藩の人。共同翻訳作業グループの結束に努力、発起人・まとめ役となり、良沢を前面に押し立てた。人の長所を巧みに引き出す才能を持っていた。現実主義と合理性を重んじ、明るい性格であった。舵取り、折衝、積極性、能率性を追求、実務を取り仕切った。天性の社交性と統率性をもち、優秀なオルガナイザーであった。
一方、処世術に長け、抜け目なく、功名心を持った。解体新書を踏み台に巨万の富をえ、将軍の拝謁をうけた。栄華が85才まで続き、神格化された。「天真楼塾」を創設、蘭医学書を買い、若者に貸し与え、育てた。蘭語研究は当初からあきらめ、終生蘭語を理解できなかったようだ。墓は虎ノ門愛宕神社隣の栄閑院にある(写真5)。
 学究肌とまとめ役の名コンビは、解体新書を完成し、約230年前に近代医学を立ちあげたのである。昭和の名コンビがいる。井深大と盛田昭夫、本田宗一郎と藤沢武夫は、世界のブランドSONYとHONDAを作り上げた。それぞれが技術と実務に徹した。つまり伴侶を含め”パートナー”を取り違えると、取り返しがつかないことになる。師の選択も同じである。ノーベル賞受賞者の69%が、自分たちの師を師がノーベル賞受賞者になる前に選んでいるのである。
 世界初の解剖書はヴェザリウスが1543年に発行した「人体の構造」である。「解体新書」は訳本である。世界との差は大きいが、日本の近代医学が18世紀後半からすでに始まり、多くの医師が活躍していたのである。
 吉村昭は「冬の鷹」という前人未踏の開拓物語の中で、人間の二典型を描いた。二人は強靱な意志と優れた頭脳をもっていた。医史学者の小川鼎三は「解体新書の時代」の中で「クルムス解剖書は本文と図譜の他に、全編の半分以上を占める注釈文が添付してある。注釈文を訳さなかったのは玄白の企画が良かったのである。注釈文まで訳していたら10年以上かかり、根気が続かなくなり、チームワークに亀裂が生じ、大事業が不成功に終わっただろう。
当時の日本人には本文と図譜だけで十分足りたのである」と考察している。「解体新書」「蘭学事始」「杉田玄白」を参考にした。「蘭学事始」は玄白が83歳の時に書いた回想録で、1700年代の蘭学の歴史を伝えている。福沢諭吉が偶然発見し、明治2年に私費で復刻出版し、二人の偉業をたたえた。

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3.3、酒人公


 酒はつらい労働に対する駄賃だった。農作業に入る旧暦三月初めに山や海にピクニックに行き、これが桃の節句の原型とされる。
桜の咲き具合を見て豊凶を占おうと山へ行き、酒を飲んだのが花見の始まりである。仕事の後の赤提灯で一杯やるのはその名残である。働かないで酒だけを飲むのは論外である。酒ーパースターを列挙する。
 史上一番の酒豪は唐の詩仙・李白(701-762)である。吟友の詩聖・杜甫(712-770)が「李白先輩は1日に一斗の酒を飲み、百の詩をつくる」と詠んでいる。
一斗は十升で、一合に一首づつ詩をつくり、百首つくったことになる。酔って水に映った月を取ろうとして溺死した。
コンプレックスがつよく、八方破れの陽気なロマンチスト、チャランポランな無責任男と評された。豊かな想像力と発想があった。いつも飲み、どこでも飲み、やすまず飲み、楽しく飲み、しんから酒が好きだった。「将に酒を進めんとす、杯、停むる莫れ」

「百年3万6千日、一日すべからく300杯を傾くべし」
「一杯、一杯、また一杯」

と詠った。快活で豪放、繊細で理性があり、陶酔の中に覚醒があり、世俗性で超俗性をもつと評されている。酒の友にしたい。
 中国の詩人、陶淵明(365-427)は李白、白楽天とともに酒の詩人といわれた。何と自分の死を悼んで詩を書いた。「納棺」の場面で、
<千年万年たったのちには恥も栄誉もしれたことか 心残りはこの世にいたとき酒が存分にのめなかったこと>
と歌い、「葬送」の場面で自分の前に酒やご馳走が並んでいるのに手が出せない嘆きを歌い、「埋葬」の場面で

<千年たっても朝はこない 千年たっても朝がこぬのはどうしようもない 親戚は悲しんでいるかもしれないがもう鼻歌を歌う他人もいる 死んでしまえば言うことはない 体をあずけて山の土となろう>

と達観しながら自分の酒や生への未練を詠み、笑っているのである。陶淵明と杯をかわしたいと願う現代人がたくさんいる。
 本邦に酒をこよなく愛した歌人がいる。若山牧水(1885-1928)は朝二合、昼二合、夜四合飲み、酒の歌をたくさん作った。

  うらかなしはしためにさへ気をおきて盗み飲む酒とわがなりにけり
  朝酒はやめむ昼ざけせんもなしゆふがたばかり少し飲ましめ
  妻が眼を盗みて飲める酒なれば惶(あわ)て飲み噎(む)せ鼻ゆこぼしつ

 昭和40年代のプロ野球で、酒呑んべいの打者がいた。168cm、65kgの小さな大打者、佐賀高を卒業しノンプロ東芝をへて近鉄に入団した永淵洋三である。
漫画家・水島新司が書いた「あぶさん」のモデルである。野球を愛し、男気にあふれ、ひたすら酒をあび、グランドに立つ愛すべき人間だった。オールスター初出場中、夜が明けるまで呑み、喫茶店でビールの向かい酒。多いに吐き、頭はボーっとしながら、直球ねらい、巨人・堀内の速球を先制ホームラン。
「カポネ」といわれ、「酒は俺のガソリン」といい、昭和44年、東映・張本と首位打者を分かち合った。3番を打ち、酒(主)軸打者となった。永淵は現在、九州佐賀市で焼き鳥や「あぶさん」をオープンしている。近鉄入団の契約金はたったの400万円。入団発表会見で「契約金で飲み屋のつけが払える」と語った。
対談で、下戸の長島が永淵に「本当に酒を2升も3升も飲むんですか」と聞いた。愛すべき男である。佐賀へ行ったら立ち寄りたい。
 まんが「あぶさん」は、昭和48年2月からビッグコミックオリジナルで始まった。私は同年3月卒業。”あぶきち”を標榜する友は、福島市より半日早く売り出されると、郡山市までビッグコミックを買いに行った。入れ込んでいた。
酒人公の景浦安武は26歳で南海へドラフト外入団、最初は代打専門の一振り稼業。福岡ダイエーへ移り46歳でやっとレギュラー、3年連続3冠王、平成15年現在31年目のシーズンである。57歳になった。気合を入れるために、日本酒を口に含み、物干し竿バットに酒を拭きつけてからバッターボックスに入った。
南海とダイエーのキャンプ地にあぶさんを応援に行ったという熱烈なファンが本当にいた。「あぶさんは60歳まで現役でがんばります」と漫画家談。たのもしい飲んべえである。
 写真はひたちなか磯崎の酒列磯前神社で、祭神は医薬の神と、酒を造る醸造の神である。社殿の向拝に左甚五郎の彫刻「リスとブドウ」がある(写真1,2)。
酒列磯前神社

(写真1)
ひたちなか磯崎の酒列磯前神社で、
祭神は医薬の神と、酒を造る醸造の神である。


リスとブドウ

(写真2)
社殿の向拝に左甚五郎の彫刻「リスとブドウ」がある

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3.4、富士見登山・富嶽4景


 富士を取り巻く山に登り、秀峰をあおぎながら銘酒を飲む、これが楽しみである。富士は刻々と変化する。そこで、富嶽4景、東西南北から撮った写真を見て頂きたい。
 写真1は東からみた富士である。丹沢山塊の塔ノ岳頂上にある尊仏山荘1490mから撮した。秋の日の午後5時頃の富士で、右斜面へ太陽が沈んでいった。
富士の山肌が赤く輝いていた。新宿から京王線で秦野へ、バスでヤビツ峠登山口へ。4時間の山歩きでこの富士に会える。

丹沢塔ノ岳山頂より
写真1
東からみた富士
〜丹沢山塊の塔ノ岳頂上にある尊仏山荘にて


 写真2は富士の西:白峰三山(日本第二の山・北岳、間ノ岳、農鳥岳)の西農鳥岳頂上から撮った。
夏の日、真夜中3時45分、額にランプをつけて農鳥小屋を出発、西農鳥岳3051m頂上でご来光を拝み、朝5時頃の富士である。
空は朝焼けて、重厚な富士が尾根の上にどっかりと座っていた。
富士は尾根よりも約1000m高い。
新宿から甲府へ。相乗りタクシーで2時間、広河原登山口に到着。
約5時間で北岳肩ノ小屋、翌日約6時間で農鳥小屋、2泊して写真撮影地に到着できる。

西農鳥岳山頂より
写真2
西から見た富士
〜西農鳥岳頂上からの富士


 写真3は南からの富士である。御殿場からバスで十里木高原へ、十里木バス停そばに愛鷹山塊のひとつ越前岳の登山口がある。
30分で笹峰に着く。雄大な富士を見ながら愛鷹荘で作っていただいた弁当を食べた。美味しかった。
宝永の大噴火孔が右下に口を開けていた。朝日で山肌がはっきり見える。正面が御殿場登山口、右が須走り登山口、裏が吉田登山口。

越前岳
写真3
南から見た富士
〜越前岳笹峰からの雄大な富士



 写真4は北の三ツ峠山頂上からである。新宿から高尾をへて大月へ。
富士急行で三つ峠駅(616m)着。約4時間の登山となる。夏の日の夕方撮ったもので、左下が富士吉田市街地。真夜中、登山者が列をつくり、頂上からのご来光を目指して登る。三脚をたて、シャッターを開放すると、富士のシルエット、登山者のヘッドライトがつくる一筋の光り、富士吉田の街灯、星の流れが一枚の写真をつくりあげる。
頂上の山小屋・四季楽園に泊まった。風呂(600円)もある。豪華な料理に酒量が増えた。
 7月下旬に富士登山競争が行われ、アイアンマンが全国から集まる。富士吉田市役所からスタート、走行距離21km、標高差3000m、気温差21℃、完走率50%で、制限時間は4時間30分。1位は2時間45分。
ちなみに、中高年鉄人の勲章は、@富士登山競争とA日本山岳耐久レース(長谷川恒夫カップ、奥多摩5山:三頭、御前、大岳、御岳、日の出、全長71.5km、制限時間24時間)の制限時間内完走と、Bフルマラソンのサブスリー(3時間以内)である。

三つ峠より
写真4
北からの富士
〜三ツ峠山頂上から



 富士は日本の象徴、縁起がよく(初夢の一富士二鷹三茄子)、富士は不二、不尽、そして不死につながる。
多くの歌が詠まれている。

 ヨーロッパではアルプスは「悪魔が棲む」とおそれられいる。一方、日本では山を「神」として崇め、畏敬してきた。
さらに全国の山は朝廷から位階まで贈られ、富士山は「従三位」であった。
やはり富士は神秘的で憧れの山である。御殿場へ引っ越した知人が、「窓から見える富士は我が家の宝物である」といった。

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3.5、祭礼・山車


 神社で行われ、見物人がいるのが<祭礼>で、お正月など家々で行う年中行事を<祭り>という(柳田国男)。
山車は、祭礼の時飾り物をして引き出す車の総称で、呼び方と形がいろいろある。
屋台(秩父祭り、高山祭り)、曳山(唐津くんち、長浜八幡宮)、だんじり(岸和田)、山笠(博多櫛田神社の祇園祇園)、山(栃木県烏山の山あげ祭り)、鉾(京都祇園祭り)等である。
 秩父の夜祭りは秩父神社の大祭で文化年間に始まり200年の歴史を持ち、毎年12月3日に行われる。
団子坂を見下ろす特別席券をもとめ、ウイスキーのお湯割りを飲みながら観戦した。秩父の冬は寒かった。
祭りのハイライトは約30度の団子坂を登るシーンである。白い息を吐きながら、お囃子に合わせ、長い綱を引っ張っていた。
10トン以上ある屋台が木組みで軋み、お囃子が高鳴るシーンは地響きとして聞こえた。若者が、屋根の上に立ち上がって、大声を張り上げていた。山車の先で、太鼓、笛、鉦が鳴り響いた。若者が肩から腰を紐で支えられ、ちょうちんを回し、体で調子を取っていた(写真1)。
秩父夜祭り
写真1
秩父夜祭り



団子坂広場が四方から照らされ、屋台と笠鉾が勢ぞろいし、花火が夜空に打ち上げられた。山車の細工物が豪華で、ちょうちんの光に照らされて輝いた。赤提灯で、ホルモン焼を肴に熱燗の酒を飲み、バスの集合時間まで楽しんだ。

 川越まつりは氷川神社大祭で、慶安年間に始まり、350年以上の伝統がある。10月第3土日の開催。川越は、芋作りが盛んで、川越運河で江戸まで運び、芋を売り込んで江戸の富と文化を買った。
江戸を真似、江戸の生活を移すことに誇りをもち、経済力をもった。川越祭りの山車は特徴があり、三高欄・二重鉾・せり上げ式伸縮自在構造・廻り舞台である(写真2)。
川越祭り
写真2
川越祭り




「曵っかわせ」とは、他の山車とすれちがったとき、廻り舞台装置で互いに正面を向き合いながら、お互いのお囃子を乱れ打つことである。はやし台に、太鼓、笛、しょう、おかめ・ひょっとこ・狸・猿・狐の面をつけた踊り手が乗り、ユーモラスな踊りを披露する。夜、ちょうちんをつけた山車の「曵っかわせ」は見応えがあるという。蔵造り、時の鐘を見、名高い芋菓子を買って帰った。
 栃木県の鹿沼(市)ぶっつけ秋まつりは、今宮神社の例大祭で、10月第2土日で行われる。
五、六台の山車が集まり、半円を描き、各々の山車が独自のおはやしを打ち鳴らす。金と太鼓を夢中になって打ち、他のおはやしを互いにかき消すように打ち鳴らす光景に、背筋が続々した。これを「ぶっつけ」といい、お囃子の競演である。
山車の上に乗った若衆が、電線を持ち上げるための棒をたかだかと掲げて、わいわいと大声で叫ぶ。迫力があった(写真3)。
鹿沼ぶっつけ秋まつり
写真3
鹿沼ぶっつけまつり


江戸の山車の影響と、日光東照宮の彫刻技術・大工の技が混じった山車である。彫刻屋台会館で見られる。  現在、東京には山車がない。関東大震災と東京大空襲ですべて無くなった。東京はその後山車の代わりに御輿をつくって祭礼を行っている。地方の町の豪商が、江戸で使い古しの山車を買って持ち帰ったのが現在文化財として残っているのである。多くは小京都と呼ばれている。

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3.6、ロードレース4選


故郷栃木県で行われるロードレースを推薦する。
@ 益子町の城内坂マラソン
 益子町の城内坂マラソンは3月の第2日曜日に開催。
走る陶工とその仲間たちが運営する素朴な大会である。ゼッケンは手作りの布製、毎年使われる。参加の手続きは当日のみ、参加費は千円。
1割は益子町福祉協議会へ寄付される。参加者は80名から150名と増えてきた。
参加賞は走る陶工が作った益子焼きで、「走」の文字が入っている(写真)。高館山300mを登って下るきついコースである。
栃木県のマラソン大会参加賞






A 二宮町の二宮尊徳マラソン
二宮町の二宮尊徳マラソンは町民が作った大会である。
4月第1日曜日の開催。藩の飛び地であった関係上、神奈川県小田原市近くの二宮町と縁が深い。一帯は名産イチゴ「とちおとめ」のビニールハウスが立ち並んでいる。
公園のそばに二宮神社があり、桜町陣場跡に陣屋が修復され、二宮尊徳資料館が完成した。
参加賞は名産のイチゴ1パック、Tシャッツかバスタオル(尊徳の精神である報徳訓:父母の根元は天地の令命に在り、子孫の相続は夫婦の丹精に在り、とローマ字入り、写真)、サービスは尊徳大鍋で作った豚汁。
10人に一人の割合であたるイチゴ4パック、さらに抽選で1等から5等までの景品付き。1等は折りたたみ自転車。入賞者には米5kgの副賞。サービスは年々よくなった。
 B 鹿沼市さつきマラソン
鹿沼市さつきマラソンの特徴は毎年変わる気の利いた参加賞:ピクニック用ビニールシート、折りたたみ式簡易椅子、ペットボトルケース、簡易ザック(写真)、ピクニックセット、などで、マラソン100選に選ばれた
欠場した時は郵送してくれるのが有り難い。5月第2日曜日開催。日光線、鹿沼駅下車。はるばる賞はさつきの苗木。5年、10年の連続参加はりっぱなさつきの特別賞がもらえる。
山車屋台会館、川上澄夫木版美術館の入場券、温泉の無料招待券付きである。毎年天気に恵まれ、男体山を眺めながら走ることが出来る。
 C 今市杉並木マラソン
今市杉並木マラソンは8月第1日曜日開催。例幣使街道を下り折り返して登るきついコースである。高低差は120m。この街道は、大名が日光東照宮参拝で往復したもので、全長37kmに17000本の大杉が街道両側に植えられ、杉並木としては世界一である。年に100本近くが朽ち落ち、早急の保護が打ち出された。街道は雨に濡れ、気温の上昇と共に、高湿の中の苦しい走りとなる。日が杉並木に遮られるので助かる。白百合が咲いていた。最高のサービスは完走後のもろきゅう。自家製みそがおいしい。首にガーゼを巻き、項に水を振りかけながら走った。出場者は2000人。参加賞は毎年の絵馬(写真)、Tシャッツ。玉こんにゃくコップ一杯150円が有り難い。たっぷりからしをかけて食べた。今市は二宮尊徳の終焉の地である。

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3.7、解剖の記


記その1.山脇東洋と杉田玄白・前野良沢は、それぞれ1754年と1771年に、観臓を行った。
玄白はまとめ役、良沢は学究肌で、名コンビであった。解体新書を完訳し、近代医学を立ちあげた。吉村昭著「冬の鷹」に詳しい。当時、解剖は腑分け人足(非人)が行い、医師がそれを観臓した。村田蔵六(のちの軍神・大村益次郎)は1859年、自らが女性の遺体を解剖し、産婦人科医に教授した。蔵六は医学と兵学で名をなしたが、家庭に恵まれなかった。司馬遼太郎著「花神」「鬼謀の人」に詳しい。
 その2.梅毒院に入院中の遊女みきは、生前に自分の解剖を希望していた。手厚く葬られることが条件であった。
明治2年8月12日、34歳であった。田口和美(東大初代解剖学教授)が解剖を行い、桐原真節が説明を行った。念速寺に埋葬された。墓は地下鉄春日駅下車徒歩15分白山1丁目にある。プラスチックのケースでカバーされた小さな墓だった(美幾女基、写真1)。


(写真1)
みきの墓
当時は自ら屍体を提供することが難しかった。みき(美幾)の志は、国内特志解剖第1号として我が国の医学研究の進展に大きな貢献をしたのである。吉村昭著「梅の刺青」に詳しい。近くに伝通院、こんにゃくえんま、樋口一葉ゆかりの地があり散歩コースとなっている。
 その3.はじめての病理解剖は明治6年、外人教授によって行われた。脚気で亡くなった26才の人であった。
日本人による病理解剖は、明治9年名大医学部創始者・司馬凌海が行い、患者は子宮外妊娠であった。引き続き結核性腹膜炎の病理解剖が行われた。JR日暮里駅南口を出て、紅葉坂を登ると谷中墓地に出る。隣の天王寺墓地に、ドーム状の東京大学医学部納骨堂がある(写真2)。


(写真2)


横に高さ3mの石碑「千人塚」(写真3)が3基建っていた。
明治3年10月から明治37年8月までに3000体の解剖が行われたのである。毎年秋の解剖慰霊祭に東大の医師、学生、看護婦、医療関係者が献花に来る。吉村昭が書いている。


(写真3)


 その4.明治維新の激動期に、二人の山形出身の志士がいた。清川八郎と雲井龍雄である。
清川は清川神社で祀られているが、雲井は知られていない。山形生まれの藤沢周平が「回天の門」と「雲奔る」で彼らを書いた。
雲井は明治3年の暮れ、小伝馬町の牢屋敷で斬られ、小塚原刑場で梟され、身体は解剖された。昔も今も、敗者はひどい仕打ちを受けたのである。
 その5.昭和20年5月、戦闘機「紫電改」の体当たりで、米軍機「B29」は墜落した。八名の搭乗員は、収容所へ送られ解剖室に消え、医師によって極秘裡に処理された。
軍事裁判が行われ、絞首刑・終身刑を言い渡された9名の被告は、軍と九大医学部関係者であった。絞首刑が言い渡された後、ひとりの夫人が嘆願書を出し、弁護士に直談判を行った。被告人医師は重労10年に減刑され、巣鴨プリズムに8年間入った。
34年後の言葉は、「教授を責めたり恨んだりする人間はおりません。すべては自分の責任です。人間は正論を踏み外してはいかんのです」であった。
「生体解剖は軍が命令したものだとしても、医師として当然断るべきだ。自分がその場にいたとして一回目に生体解剖の事実を知ったなら、おそらく二回目からは参加するまい」という医療関係者の証言があった。
解剖室を提供した教授が重労25年の刑を受けた。上坂冬子著「生体解剖・九州大学医学部事件」、遠藤周作著「海と毒薬」に詳しい。巣鴨のことは吉村昭著「プリズムの満月」に詳しい。
 思い出の記.昭和44年4月解剖学実習第1日目、解剖学教授のお話があった。「ご遺体の胸にあなたたちの手のひらをおきなさい。ご遺体から君たちひとりひとりの手のひらをとおってメッセージが伝わってくるでしょう。忘れない様にして下さい」であった。
緊張、興奮、感動を体験した日だった。あれから36年が経った。
 (付)ニューヨークにあるモンテフィオレ病院の解剖室に、ラテン語「この場所は死者が生者に教える処」と書かれている。
現在、解剖数が減少してきた。病理解剖が臨床に貢献する意義はなくなったのであろうか。

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3.8、海がみえる3名山


山の裾野が直接海にそそぐ名山がある。
鳥海山、大山、開聞岳で、山の頂から眼下に海が見え、感動したので小話を綴る。
最初は鳥海である。酒田から鉾立登山口へ、御浜小屋で、鳥海山頂と鳥海湖を眺めながら昼食を食べた。
七五三掛(しめかけ)分岐で、右の外輪山コースを辿った。頂上付近は岩山で、ルートが分からず苦心して新山頂上(2236m、写真1)へたった。


(写真1)
新山頂上



岩表面が凍っていたら危険であろう。小屋の前で銘酒「日本海」を飲んだ。脱水の体の隅々にアルコールが染み渡った。外輪山は岩が帯状に何層も平行に走っている。雪渓が谷を埋め、千蛇谷コース登山路が細長く見える。日本海沿岸のシルエット、酒田港のクレーンの列、小さな岬が続き、飛島が一の字に横たわっている。
海面が光り輝く「光る海」を肴に一時間酒をのんだ。太陽の光が雲の間から海面に降り注ぐのである。
太陽が日本海へ沈む前の現象である(写真2)。


(写真2)
太陽が日本海へ沈む



帰ってから石坂洋次郎の「光る海」を再読したが、この景色とは関係なかった。
 翌朝、影鳥海は見えなかった。朝日が鳥海山にあたり、山影が日本海に投影するのである。太陽が高くなるにつれて影は小さくなり、僅か30分間の現象である。逆に、夕日が新山に当たり、山頂のシルエットが外輪山の壁に現れるのを逆影鳥海と呼ぶ。ハイカーは、影・逆影鳥海を見るために山頂小屋に泊まるのである。
 日本海を眺めていると、藤沢周平が生まれ育った地が見えた。庄内藩が小説の中で「海坂藩」となって登場する。
周平が投稿していた俳誌の名を借用したようである。エッセイの中で、海坂とは「海辺に立って一望の海を眺めると、水平線はゆるやかな弧を描く。そのあるかなきかのゆるやか傾斜弧を海坂と呼ぶと聞いた記憶がある。美しい言葉である」と語っている。周平が見た日本海が目の前にある。
次は大山である。出張先の宇部から下関に出て、夜行列車で米子に行き、バスで大山寺部落へ。大山頂上(1713m)は北面の崩壊が激しく(写真3)、「縦走しないよう」の掲示板が立ててあった。



(写真3)




南北が鋭く切れ落ちているからである。バランス感覚とくそ度胸をもつ冒険家がいるのだろう。頂上は、山の脆さのため、木道がきちんと整備されていた。麓から山頂へ石を運ぶ「運動」の呼びかけがあった。崩壊が止まらないのだろう。頂上から宍道湖、日本海、蒜山三山が見えた(写真4)。


(写真4)
頂上から宍道湖、日本海、蒜山三山が見えた



下山すると大山神社の例大祭の日で、境内と社殿で山伏姿に扮した若者が、太鼓の乱れ打ちをしていた。露天が出て、古着、農具、焼印する金属製の道具が売られていた。
大山は南北から全く違って見え、魅力のある山である。32歳の思い出である。
 最後に開聞である。指宿の国民休暇村に泊り、タクシーと汽車で開門駅へ。無人駅前にあった駄菓子屋に荷物を預ける。村内放送が聞こえる長閑な所だ。おとりの鳥を二羽持った密漁者風のおじさんに会う。9合目からは急に展望が開けた。2時間で頂上に到着(924m、写真5)。



(写真5)




広くてどこまでも続く太平洋と、虫垂の形をした長崎鼻が目にはいる(写真6)。
山全体が海から直接せり上がている(写真5)。巨大鰻で有名な池田湖が近くに見える。沖縄、台湾、霧島連峰は見えなかったが、海と空は真っ青だった。36歳の春のことである。



(写真6)
虫垂の形をした長崎鼻が目にはいる


 海からそびえ立つ孤高の山に利尻岳と宮之浦岳がある。いつの日にか登ってみたいものである。